ベッドの隅で小さく蹲るカデンツァを、フォルセールの大きな手が撫でた。
「よく、飲まなかったな」
飲まなかったのではない、飲むことが出来なかったのだとカデンツァは言わなかった。
撫でてくるフォルセールの温かな手のひらさえ、今は苦痛で仕方がなかった。ようやく力を抜いた指の間から、錠剤をベッドの上に転がすと、フォルセールがさっさとつまみ上げて、指先で握り潰す。
「なんで売らなかった」
フォルセールの眉が顰められる。相変わらず俯いたままのカデンツァは、ゆっくりとまばたきを繰り返すだけで視線をあげようとはしなかった。
「俺はお前をアトルガン皇国に連れて行ってやると約束しなかったか?」
溜息を盛大に、わざとらしくついてみせるフォルセール。
「あんな口約束」
言い返せずに黙り込んだフォルセールを、カデンツァは鼻で笑った。
「連れて行く気なんてなかっただろ」
美しい表情が僅かに歪み、唇が形取るのは嘲笑。それは自分自身へあてたものか。
はじめから駆け引きなどではなかった、とその唇が語っていた。最初から諦めていたのだ、と。
だが、それでも口約束という曖昧でどうしようもないものに縋ったカデンツァを誰が責められるだろうか。持たざる者の立場はいつだって弱い。
「馬鹿だね、お金になったのに」
長い睫毛が揺れて、そこに水滴が貯まっていくのをフォルセールはただ見下ろす。
「強く言えたモンじゃないが、信用取引なんだぜ、カデンツァ。カデンツァ・ヴァイデンライヒ」
返事はなかったが、僅かに揺れた肩がその名前を肯定していた。
「とにかく、すぐに風呂入ってこい。服も新しいのを用意した、渡航免状もある。これを持ってマウラへ行くんだ、外にチョコボも準備してある。急げ」
「なんで」
そこまでしてくれるの、と続くであろう言葉は腕を強く引かれた事で遮られる。
「約束、しただろう。カデンツァ」
カデンツァは重い腰を引きずるようにしてチョコボに跨った。
雲が月を覆い、辺りは闇に沈む。
「しっかりしがみついてろ、マウラへの道は分かるな?」
焦りが見えるフォルセールの声。その理由をカデンツァは怖くて聞けなかった。言われるがままに頷く。
「渡航免状、それとこれ。持って行け」
手に乗せられた薄汚れた革袋は、レヴィオのものだった。あの日、カデンツァの手に押しつけられたギルの詰まった革袋。空になっていた革袋には、今またずっしりとした重みがあった。
「いらない。これ以上借りは作らない」
「馬鹿言え」
押し返そうとした手を握り、フォルセールはカデンツァの細い身体を引き寄せる。そしてそのままカデンツァの柔らかい唇を強引に重ね、奪い取った。
重ねただけの唇はすぐに離され、僅かに驚いた表情のカデンツァがフォルセールを押しのける。
「どうやって船にのるつもりだ、渡航免状は船のチケットじゃない」
そう言って笑いかけると、初めてカデンツァがうっすらと、笑った。
笑い方を忘れたわけではないのだと、何故かそんなことに安堵すら覚える。
「その金はお前のくちびるの値段だ、覚えとけ」
舌入れるなら5倍は取れ、それ以上は交渉だ。安く見せるな、安く売るな。言いたいことも伝えたいことも沢山あったがフォルセールは黙った。
願わくば、もう二度とそんな事をすることがないように、その身を凶器にすることがないように。
「お前に、幸あらんことを」
美しき青年はまるで女神のように笑う。
チョコボに跨る小さな背中を見送って、フォルセールは人生最大といっても過言ではない、後悔の溜息をついた。
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