wish

 





 後始末したものの、レンタルハウスに戻る気力もなくて、ヴァンは路地から出たすぐの木箱に腰掛けた。

 アトルガン皇国への航路が開通してからというもの、ジュノには数年前のような活気はない。だけれど、最近少しずつジュノもまた賑やかになってきていた。新米の冒険者が走り、イベントやパーティ募集のシャウトがある。競売には相変わらず人だかりが出来ているし、熟練の冒険者の姿もちらほらと見かける。
 だるい身体を木箱に預けてヴァンは何を見るともなしに道行く冒険者を見ていた。
 抱かれるのは酷く疲れる。心も体も、受け入れるようには出来ていないのだから当然だ。
 アニスも、クラインと同じようにしたいのだろうかと考えて、ヴァンは膝を抱えた。

 目の前でじっとヴァンを見上げる視線に気付いたのはすぐの事だった。
「あ、何?」
「あなた」
 大きな目が真剣にヴァンを見つめる。
 赤い髪を、高い位置で二つに結わえたタルタルの女の子だ。
「それ、殴られたのね」
 彼女の視線がヴァンの頬や唇を移動した。
 ヴァンは肩を竦めて「違うよ」とだけ言うと、木箱から降りて地面にしゃがみこみ、タルタルと同じ視線に立つ。彼女は黒っぽいチュニックを纏い、瞳の奥に何かを隠してじっとヴァンを見続けた。外見とは裏腹に、声は落ち着いていて大人の女性を思わせる。
「そう。大丈夫?」
 信じていません、と言い切られた気がしてヴァンは少しだけ困ったように微笑んだ。タルタルの小さな手が、ヴァンの頬に伸びて、傷口をなぞる。
「我慢しちゃダメよ。助けて欲しいときは助けてって叫んで」
「なに、なんの話」
 見知らぬタルタル。記憶を辿っても、知り合いのタルタルに彼女はいない。
「ひとりでずっと泣いてた?」
「ちょ、と、なんなの」
 心臓が高鳴った。立ち上がるとタルタルは首をあげてなおもヴァンを見上げる。
 なんなんだよ、と言いかけた言葉を呑み込んでヴァンは深く息を吸い込んだ。
「ごめんなさい」
 今に泣きそうな顔でそう言うから、ヴァンはその場を動くことが出来なかった。そして、見上げた彼女の視線で、ヴァンは彼女のことを思い出す。
 あの日、龍のねぐらで殴りかかってきたクラインを止めようとしたタルタルの黒魔道士。
「アラシャ!」
 突然その声に振り向いた、タルタルの彼女。
 ヴァンは無意識に、彼女と、その声の主との間に身体を割り込ませた。


 大きな音が響き、競売前に居た冒険者が一斉に音の方向を向いた。
 木箱に叩きつけられ、無様に地面に転がるヴァン。
「っふ…」
 地面に染みを作るのは新しい血。
 ヴァンは軽く咳き込むと口の中の血を吐き出した。塞がっていた傷が開いた感触。
「やめて、クラインだめよ」
 タルタルの彼女が叫ぶ。
 アラシャ。彼女の名前。クラインの所属するNMLSのリーダー。
「アラシャ」
 もう一度彼女の名前を呼ぶクライン。アラシャは小さな足でクラインから逃げるように後退った。手を伸ばしたクラインの腕を払い、アラシャは彼を睨み付ける。
 止めないと、と思う心に身体が付いてこなかった。震える膝が、ヴァンが立ち上がることを拒む。
 クラインの腕がもう一度彼女に伸ばされて、チュニックを掴んだ。タルタルの小さな身体が持ち上げられるようにして地面から浮く。
「もうやめてっ」
 アラシャの声。
 クラインの右腕が振り上げられたのを見て、叫んだ。


 無我夢中だった。
 飛び出して、タルタルの彼女を胸に抱きしめ代わりにクラインの拳を受けた。地面に転がったヴァンを、なおも引きずり起こし振り下ろされる拳。もうクラインが何を叫んでいるのか、アラシャが何を喚いているのか、自分がどうなっているのか分からない。
 髪の毛を掴んだクラインの手が、差し出された誰かの手によってとまったのが微かに見えた。


 霞んでいく視界に見えたのは揺らめく炎のような赤。


 嗚呼、あれはアニスの炎だ。
 漠然とそう確信して、ヴァンは目を閉じた。
 近くでタルタルの悲痛な声が聞こえ、それに混じって聞き慣れた低い声がヴァンを呼ぶ。
 大丈夫、と返事をしようとして、声が出ないことに気付いた。声を出そうと何度も口を開けるが、言葉が紡がれることはなかった。

 街の喧噪が遠くなり、やがて静寂が訪れる。
 呼び声は、もう聞こえない。
 


 

 

Next