Ratsbane/Onslaught

 





「帰る」
 その言葉は疲れているようにも聞こえた。
 彼女の足音が遠ざかって行くのが分かったが、男はすぐに彼女を追いかけなかった。
「悪かったな、許してやってくれ。マクヴェルにも言えず、矛先を向ける相手がいないんだ」
 一度抜いてしまった刃を彼女はすぐに収めることが出来なかった。
 そうだろう。当たり前だ。俺と同じように、心待ちにしていた心臓だったのだから。
 だから許せるか、と言えば分からない。今はそこまで頭が回らない。
「行って」
 そう言うことだけが精一杯で、目を閉じた俺を置いて男も彼女を追って足早に走り去った。
 身体の奥がじわりと熱を持つ。痛みは薄れて、傷が塞がっていくとき独特の焼け付くような感覚。俺の身体はそれが過ぎ去れば、傷口はあらかた塞がってしまう。傷が酷ければそれなりの時間が必要だったけれど、切り裂かれたり抉られたり刺されたわけではないから、すぐに表面上の傷は塞がる。無茶をすればまた傷口が開くが、動けるようになるまでに掛かる時間はそれ程でもなさそうだった。
 ようやく大きく息をついて、薄暗がりの倉庫で身を起こす。はだけられた胸、無様に下ろされた下衣。一つ一つそれをただして、血の臭いにため息をついた。腰の裏に響く痛み。
 日が暮れて薄闇が拡がっていく中、何とか立ち上がった。
 大事な革鎧。俺の、革鎧。
 彼女から奪った、俺の心臓。
 重たい身体を引きずるようにしてマウラに一軒だけある宿屋に向かった。もう宿泊の予定だとか、どうでもよかった。とにかく今は疲れた身体を横にしたい。床から拾って抱きしめた深紅の革鎧がやけに重たく感じた。
 相当顔色が悪かったのか、宿に着くなり手続きもそこそこに部屋へ案内された。面倒で多めの金貨を手渡したら、何か食べたいものはないか、と聞かれたので調子が悪いので明日までそっとしておいて欲しいと伝える。案内してきた彼女は大きく何度も首を縦に振ってすぐに階段を駆け下りていった。
 何度目かのため息。
 倒れ込むようにベッドに身体を横たえて、目を閉じた。
 眠いわけではなかったが、そうしていることで随分と痛みが和らぐのは何故なのだろう。
 暖かい室内のせいか、それとも柔らかいベッドのせいか。
「疲れた」
 そう独りごちたところで、携帯端末が震えた。
 発信者は、マクヴェル。
 端末をたぐり寄せて耳元に寄せる。はい、と小さく出れば、マクヴェルが安堵のため息を漏らしたのが聞こえた。
 よかった、繋がった。そう聞こえるマクヴェルの声は少し疲れているようにも聞こえた。理由は想像通りだとは思うけれど、自業自得と言えばそうなのかもしれない。
『さっきはちょっと立て込んでてね』
 見えもしないのに、端末の向こう側で人懐っこい笑顔を浮かべたマクヴェルの顔が簡単に想像出来た。
『どうした、貰ったんだろ』
「貰った、ありがとう」
 そこで会話は一度途切れる。
『カデンツァ。今、逢えるか?』
 少し考えた様子で、マクヴェルはそう言った。
「マウラ」
『お前がいいなら今から向かう』
 少し間を開けて、いいよ、と返すとすぐに行く、と言った声の後ろで汽船の警笛が鳴り響いた。
 込み上げる苦笑い。通信が切れる瞬間、アルザビへの出港の合図とともに波の音が聞こえた。どこから通信しているんだか。端末を押しやって、もう一度目を閉じれば階段を駆け上ってくる足音が響いた。ややあってノック。
「カデンツァ」
 名前を呼ぶマクヴェルの声。
「あいてる」
 恐る恐るドアノブを開けるマクヴェル。鍵は掛けていないから、ドアはそのまま開いた。
 ベッドに横になったまま、ドアのところで立ち尽くしたマクヴェルを見上げる。
「大丈夫か、怪我は」
「横になってただけだ」
 少しだけしまった、という表情をして、マクヴェルは視線を床に戻した。態度とこの対応の早さから、随分前に連絡だけは行っていたのだろう。多分連絡したのはあの男か。名前も知らない、マクヴェルのリンクシェルメンバー。

 

 

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