Ratsbane/Onslaught

 





 マウラに来るのは何日ぶりだろうか。
 乾いた風に混ざって潮の香りが鼻孔をくすぐった。
 あまりこない港街の、よく分からない研究者。たまたま港に用事があったのか、助手のひとりが船着き場付近にいた。声を掛けようと思って足を向けると、向こうが俺に気付く。
「なんとなく、来るような気がしていましたよ」
 そう言われて、前に訪ねてきてからどれだけの日々が過ぎたかあらためて考えた。無言で革袋に入れた心臓を差し出すと、彼はゆっくりと頷いて中を確認する。感嘆のため息。
「素晴らしい。約束のものを差し上げましょう」
 喉が鳴った。
 彼は一度研究室になっていると思われる石造りの家に戻ると、すぐに戻って来る。
 手には、深紅の革鎧。
「細かな寸法の調整などは専門家に」
「ありがとう」
 渡された革鎧を、心臓の代わりに抱きしめる。
 この罪の証が、今度から俺の心臓を守るのだ。
 お互い礼を言い合ってその場を離れた。宿泊の予定はなかったが、今からもう一度汽船を待つのも微妙な時間帯だった。どうせ差し迫った予定はないのだから、一泊くらいすればいいと自分に言い聞かせ、闇に染まっていく町並みを横目に宿へと急いだ。
 突然、だった。
 倉庫のような、がらくた品がいくつも積み上げられた船着き場の一角。横から不意に伸びてきた腕が、俺の身体を掴んで薄暗い倉庫に引きずり込んだのだ。引き倒されて地面を擦る肩。痛みに顔を顰める間もなく、背中から羽交い締めにされ、持っていた革鎧は地面に落ちた。
 は、と息を吐くと同時に上から振ってくる柔らかいが棘のある声。
「やっぱり、来ると思ってたわ」
 微かに震えたその声は、喜びに震えているのか、それとも怒りに震えているのか分からないほど掠れて耳に届いた。数時間前、あのアポリオンのなかで聞いた凛と響く声とは程遠い、彼女の声。地面に腰をつけた形で見上げれば、薄暗がりのなかで彼女の金色の髪の毛が僅かに揺れる。
 背後で俺を掴む男が身を屈めた気配がした。耳の後ろに男の息づかい。小さく暫く黙ってろ、と聞こえる。もとより言い返す気も、言い訳する気もなかったが、それが最良の選択であることに間違いはなさそうだった。
 羽交い締めにしてきた屈強な腕が、俺が抵抗しないと分かると気持ち弛められる。だけどしっかりと腕を固定し、魔法の詠唱をさせないつもりなのは雰囲気で伝わってきた。複雑な詠唱を必要としない青魔法は、ものに寄っては”解放”までの時間が極端に短い。それを警戒しているのはありありと見て取れた。印は結べそうにないが、結ぶつもりもなかった。
 好きにすればいい。
 それで彼女の怒りが少しでも紛れるのなら。怒るのはもっともだ。俺だって、あんな展開は想像していなかったのだから。
 肩で息をしつつ彼女は俺を見下ろしたまま、憎悪の籠もった目を向けた。そのまま彼女は抵抗しない俺の横に落ちた革鎧に気付いて、拾い上げると強く握りしめた。
「交換したのね」
 瞬間、革鎧が俺の顔に叩き付けられた。装飾品が額を擦って嫌な音を立てる。
 静かな怒りから一転して、彼女の叫び声。
「汚い男!汚い!汚い!」
 蹴られるか、殴られるか、そう覚悟して歯を食いしばった。だけどいつまでたっても思っていた痛みはやってこなかった。
「男の癖に、男なのに、どうして」
 ただ目の前で繰り返される言葉。
 振り乱した髪が薄暗い闇の中で揺れた。
「おい、落ち着け。意味が」
「知らないの?」
「なにが」
 こいつは、と彼女はしゃがんで俺の顔を掴んだ。金属鎧が擦れ合う無機質な音が辺りに響く。
「こいつはマクヴェルと寝て心臓を貰ったのよ!」


 

 

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