オルフェウスの朝/Onslaught

 




 まるで迷宮の中にいるようだ。
 自覚のない歪んだ好意。これはいつからだ。
 あの細く、小さな手を初めて握り締めた時に、俺の運命は変わってしまったのだ。

 皇都アルザビは朝から雨だった。
 前日の市街戦で疲弊した皇都に魔笛はなく、今はマムージャ達の元にある。奪われてすぐ、有志を募った傭兵たちが今もなおマムーク最深部にて魔笛奪還戦を繰り広げていた。
 魔笛がないとアルザビはとても静かだ。魔笛から音楽が聞こえてくるわけではないのに、なくなってしまうとそこから全ての音がなくなったかのように感じるのは何故なのだろう。それが魔笛のもつ魔力のひとつなのかもしれない。
 霧のような雨が地面を覆っていく。空は曇ってはいるものの東の空は明るくて、雨は昼過ぎに上がりそうな兆しを見せていた。
 これといって特に用事はなかったのに、目が覚めてしまい日課のように競売所を覗き込む。
 今の売れ筋商品、高額取引履歴。金を効率的に稼ぐための欠かせない情報。もう要らない情報なのに、長年染みついた癖は中々俺を解放してはくれない。自嘲気味に笑って競売を後にする。
 その競売所の隅で、見知った男が蹲っているのを見付けたのは偶然だった。
 霧雨の中、ただ蹲って。まるでそれは祈りを捧げているようにも見えて、あり得ないと首を横に振る。
「カデンツァ」
 男の名前を呼ぶ。小さな身体を折りたたむようにして膝を抱え、いつからそうしていたのか漆黒の髪は水を滴らせていた。慌てて駆け寄ると、濡れたガーネットが俺を見る。
 嗚呼。
 そう聞こえた。ため息にも似たそれは、安堵なのか、それとも絶望なのか。
 抱え起こそうと肩に手を置くと、恐ろしく冷えた身体がそこにあった。慌てて自分が濡れるのも忘れて抱きかかえ、レンタルハウスのある区画へと走った。触れた場所から、根こそぎ体温を奪われると思うほど冷たい身体。
 どれだけの時間、カデンツァはあそこで、何を待っていたのだろうか。
 カデンツァの部屋が分からず、とにかく自室へと運んだ。先ほどまで自分がいたからか、それ程部屋は寒くはない。それでも濡れたカデンツァには酷だ。カデンツァの身体をシーツでくるみ、部屋にはすぐに火を付け、バスタブに湯を張る。玄関で蹲ったまま動こうとしないカデンツァを無理矢理立たせ、風呂場と押し込んだ。
「風呂に入るんだ、カデンツァ」
 嫌な言い方だと分かってて言った言葉。カデンツァはぴくりと肩を揺らし、まるでそうしなければならない、とでもいうかのようにのろのろと服を脱ぎ始めた。クリーム色のタイルに脱ぎ捨てられる装束を、俺は一つ一つ思い出しながら拾い集める。最低な記憶の欠片だ。そして俺は今、その記憶をカデンツァにも与えている。
 カデンツァがバスタブに身体を沈めたのを確認して、俺は装束を乾燥機に突っ込んだ。
「ゆっくり温まってこい。替えの服は俺ので我慢してくれ」
 微かにカデンツァの頭が上下に揺れた。
 風呂場を後にして部屋に戻ると、ベッドを整えカバーを掛けた。ソファやカウチの類は置いていないから、風呂から出てきたカデンツァと俺が座るのはベッドの上になる。これ以上嫌な記憶を呼び覚まさせるわけにはいかない。不安を抱かせないように、クッションと膝掛けになりそうな織物を数枚用意した。
 長い風呂に僅かな不安と緊張。
 だが、シャワーの水音がし始めたことで俺は馬鹿みたいに大きく息を吐いた。
 部屋は随分と気温を上げ、部屋着でも大丈夫そうだ。そろそろ上がってくる頃だろうと、つい癖でココアを準備しようとして気がついた。ココアなど俺の部屋にあるはずがないのだということに。
 昔、食欲のないカデンツァの為にと、ちょっと用事で外に出たときに買ったココア。レンブロワに置いてあった、本当に子供用の安いインスタントココアだったが、カデンツァは喜んだ。実際そんなものすら俺は満足に与えてやることは出来なかったけれど、寒い夜にこっそりと持って行った時、泣き顔ばかりで埋め尽くされていた俺の記憶に、ひとつだけ笑顔が加わった。
 結局、戸棚の何処を探してもあるのは珈琲豆だけで、ミルクも、メープルシュガーさえもなかった。



 

 

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