オルフェウスの朝/Onslaught

 




 珈琲を準備したところで、カデンツァが風呂から出てきた。
 先ほどまでの酷く病的な青白い顔ではなく、僅かに上気した頬と血色のいいうす桃色の唇に安堵した。だが、風呂場で泣いたのだろう、酷く腫れた瞼と赤く潤んだ瞳が昔を思い出させる。
「温まったか」
 やっとの事でそう声をかけると、小さくありがとう、とカデンツァは言った。
 着替えた俺のルームウェアはカデンツァには大きく、腰に引っかかっただけの下衣は今にも落ちそうで、足首にたまった裾に笑いが込み上げた。カデンツァに珈琲の入ったマグカップを手渡し、背後に回って濡れた髪の毛を拭く。
 何度となく繰り返した行為。
 だけど今と昔では意味合いが大きく違う。
「ごめん」
 そんなことをさせて、とでも言いたいのか、それとも何があったかは聞くなと言うことなのか。カデンツァは牽制するかのようにそう言った。出来る事ならこの小さな背中を抱きしめてしまいたい。腕の中にかき抱き、全ての不安から守りたい。だけど、それは今の俺に許された行為ではない。それなのに、一筋カデンツァの頬を涙が伝ったのを見た瞬間、俺はダメだと思いつつもカデンツァの頭をそっと抱き寄せた。
「どうしたんだ」
 俺といると、思い出してつらいかカデンツァ。
 華奢な指を握り締めると、僅かに握り返してきた気がした。
 落ち着くまでひとしきり泣かせて、その間じっと待つ。カデンツァが泣き疲れるまで、落ち着くまで、ただ頭を撫で抱きしめた。
 どれだけそうしていたのか、カデンツァはようやく深く息をついた。
 謝りそうな雰囲気を察して、そっと唇を指で塞いだ。赤い瞳が僅かに俺を見上げて、すぐに伏せられる。胸に抱いたカデンツァの身体はやっぱり華奢だ。小さな頭が揺れて、俺の服で涙を拭ったのが分かった。
「落ち着いたか、珈琲あたためてきてやろうか」
「いや、大丈夫」
 上半身を起こしてカデンツァが俺から離れると、今まで触れあっていた場所がすうっと、音を立てて冷えていった。一抹の寂しさ。それを振り払うかのようにして立ち上がって、カデンツァのマグカップを手に取る。
「服、乾いてる?」
「待ってろ、見てくる」
 乾燥機に入れた服が乾いていたら、きっとカデンツァは帰ってしまうだろう。いっそのこと、乾いていなかったと嘘をついてしまおうか。今はまだ、カデンツァを帰したくなかった。それなのに、俺は何一つ正直になれずに、乾燥機の中で乾いてしまった服を手にとって戻ってくる。
 帰ってしまう。
 この部屋から、出て行ってしまう。
 身支度を調えたカデンツァは、俺の服を抱えると洗って返すよ、と言った。いい、それくらい洗っておく、と受け取ってから、すぐにまた返しに来てくれるというチャンスを逃したことを後悔した。
 いつだって俺は、そうやって許されないことを願っては望む。
「なあ、カデンツァ」
 振り向いたカデンツァの表情はあの頃のままだ。俺に何一つ期待していない、ただ次の命令を待つだけ。そういう風に仕立てたのは俺だというのに、俺は後悔してやまない。俺が何も言わないのをみて、ガーネットの瞳が不安げに揺れた。
「もし、もし、だ」
 僅かに目を細めて、カデンツァは小さく相槌を打つ。
 ───だめだ、やめろ、言うな。
 頭の片隅で、もう一人の俺が激しく警鐘をかき鳴らす。だけど、滑り出した舌は、言葉を紡ぐことをやめない。
「もしお前が、これからも俺と」
 ───俺と。
 俺と一緒に生きてもいい、と思うなら。
「俺が、隣にいてもいいと思うなら」
 伝えたいことをねじ曲げて、結局言葉にしたのは似てはいても異なる言葉。
 ごくり、と喉が鳴った。
「今日、一日俺はここに居る。この部屋に」
 なあ、分かるだろう。カデンツァ。
 分かってくれ。

「もう一度、ここに来てくれ」



 

 

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