Departures/Onslaught

 




 一度闇に沈んだあの時から、一度も感じなかった飢えを、僅かとはいえ感じたのが一昨日のことだった。
 長時間に及ぶ蛮族軍の侵攻に、ただただ気が昂ぶっていただけなのかも知れない。熾烈を極める戦闘の連続に、周囲に立ちこめる噎せ返るほどの血臭が、余計な記憶を呼び覚ましただけかも知れない。
 もうどちらが流したものなのかすら分からない夥しい体液。赤黒く変色してしまった石畳。折り重なるようにして倒れる傭兵。あちこちで聞こえるか細い呻き声。赤い霧が、焦げた臭いが、砦の崩れる轟音が、頭の中を刺激した。
 はっきりと飢えだと認識したわけではなかった。
 だけど、気がつけば我を忘れたように剣を振るい、マムージャの臓物を引きずり出しては返り血で鎧を赤黒く染めていた。息つく暇もないほど矢継ぎ早に身体を魔物に明け渡した。全ての血の臭いが、理性と共に苦しさや痛みをどこか遠くへと押しやっていた。
 鱗に深く沈む切っ先。
 断末魔の咆吼。
 浴びる返り血。
 頬についた飛沫を拭って、思わず舐めた。
 臍の奥に、じわりと響いた熱に心臓が躍る。
 確信はなかった。だけど、間違いなく市街戦が飢えを加速させた。
 身体中にこびり付いたように、血臭は翌日も消えることはなかった。緩やかに、じわじわと蝕むかのように浸食してくる飢え。ふらふらと「食べる」獲物を探しに出かけようとするのを必死で押さえて、あの頃のように身体を丸めた。
 飢えが過ぎ去っていくことなどないのは分かりきっていたのに。
 足掻いても、藻掻いても、どうすることも出来ない、ならない。いつもこうして、限界まで我慢して、そして耐えきれず獣のように、いや魔物そのものだった。魔物さながら生き血を啜り、屠り、喰らった。
 からからに渇いた喉。血の気のない青白い肌と対照的に、まるで血を写したかのような深紅の瞳。
 鏡の中の俺が、俺を捕食する。

 何か食べなくては。
 食べなくてはならない。

 まるでそれが本能とでも言うのか、ぎらぎらとした目が俺を睨む。
 だけど、レヴィオに見られたくない。
 真っ先に、そう思った。それはもしかすると、俺の残った最後の人間の感情だったのかもしれない。
 食べる所も、飢えているところも、こんな浅ましい魔物の姿を、見られたくなかった。食べた後なんて、もっと悪い。今でこそ色々と抑制出来るものの、一歩間違えばその行為は魔物以下だ。
 眩暈がするほど酷い頭痛のなかで、俺はレヴィオに酷い連絡をした。

 ───暫く逢わない。

 息を飲んだのが分かった。
 違うんだ、これは。説明も出来ず、謝ることしかできなかった。
 嫌いじゃない、嫌なんじゃない。

 ただ、こんな俺を、見て欲しくなかった。
 あんなに、身体の中まで見られていたのに。他の男に組み敷かれて、ひたすらただ犯される様すら、ずっと見られていたというのに。レヴィオの指が、俺の身体で触れていない場所などないほど、近かったのに。

 どう伝えていいのか分からないまま、俺は暫く逢わない、という結論を出した。
 随分長い沈黙の後、レヴィオは分かった、と頷いた。
 俺はやっぱり、謝ることしか出来なかった。



 

 

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