Collapse/Onslaught

 


[←side:Kadenz→]



 日常と非日常って、何が違うんだ。
 そんな馬鹿なことを考える、昼間のシャララト。
 いつもの隅の席で、ひっそりとアルザビ珈琲を楽しむ。ここからはシャララトに出入りする、沢山の冒険者の姿が見える。数人分の珈琲を必死に抱えて走っていくタルタルの魔道士、シュトラッチをこっそり購入するいかついガルカの戦士、楽しそうに食事をとるミスラとエルヴァーンのカップル。
 これらはどれも日常だ。
「カデンツァ」
 柔らかい声が俺を呼んだ。その声に目を上げると、珈琲を持ったツェラシェル。
 あの日からどんな顔をして逢えばいいか分からないまま、時間だけが過ぎた。今も俺はどんな顔をしているだろう。ツェラシェルもまた、少しだけ戸惑った様子で、俺の向かいに座るのを迷っている。そんな雰囲気だ。
 ここ最近で、ツェラシェルにはあり得ない状況ばかりを見られてきた。見られることには色々と慣れているけれど、羞恥心までを失ったわけではない。
 これが非日常、ってやつか。
「座れば?」
 促すと、ぎこちない笑顔でツェラシェルは座った。
「調子は、どう」
「お陰様で」
 つい先日もこんなやりとりをしたように思う。お互い、無意識にそれ以上の話題を避けた。
 ツェラシェルはあいてしまった間を埋めるかのようにトレーを置いて珈琲に口をつける。次の言葉に迷っていたら、小さな赤魔道士がシャララトに入って来るのが見えた。彼女は俺を見つけると、やっぱりここにいた、と駆け寄ってくる。
「ツェラ様、カデンツァ。なんか珍しい組み合わせね」
 俺の天敵、ルリリ様の登場だ。でも今は彼女の存在がありがたい。
 彼女は満面の笑みで、それが当たり前だというようにツェラシェルの隣に腰を下ろした。見上げるとツェラシェルが見える彼女の特等席。彼女はいつだって真っ直ぐで、飾らない。
 すぐにルリリの視線が俺に突き刺さる。空気読みなさいよカデンツァ、そう目が語っていた。俺は肩を竦めると珈琲を飲み干し、愛らしくも憎たらしい彼女のために立ち上がる。
「トロル軍がワジャームに動いたみたいだから俺そろそろ行くよ」
「あら、もう行くの?気をつけてね」
 あからさまなルリリの台詞。小さな手が俺に向かって揺れる中、ツェラシェルが何かを言いたそうに俺を見た。
 そのツェラの視線を遮るかのように、じゃあまた、と俺は手を振ってみせた。



 先ほど鳴り響いた警鐘は、トロル傭兵団がアルザビに向けて進軍を開始したと知らせるものだ。
 アトルガン皇国の傭兵として契約した以上、俺にはアルザビを守る義務がある。バルラーン大通りからアルザビに入ると、既にトロル軍の侵攻を待ち受ける傭兵達の姿があった。
 その一団の中に混ざっていた、緋色の髪の男が目に入る。
 俺が見つけたのと同時に、彼もまた振り返った。交差する視線。
「カデンツァ」
 高くもなく、低くもない。耳に心地よい声が俺だけに響いた。今日はよく呼ばれる。
 こうやって、俺とレヴィオは何度もすれ違って来たのかもしれない。こんなにも近い場所に居ながら、俺たちは1年近く会わないまま過ごした。今まで逢わなかった事が奇跡なのか、それとも再会してしまった事が奇跡なのか。
 一度出会ってしまえば、そこから逃れる術はない。
 ゆっくりと近づいてくるレヴィオから視線をそらし、目を伏せた。
 普通の顔をして逢えるような間柄じゃあない。あの日、レヴィオが俺に仕掛けてきたのは最低の所業だった。それなのに、不思議と怒りはわいてこない。俺は、怒り方を知らないのだと、誰かが言ったことを思い出す。
 知らないわけじゃあない、と思う。
 ただ、どうしていいか分からない。怒っても、泣いても、何も変わらない。それを俺は大聖堂で嫌と言うほど味わった。
「身体の調子はどう、だ」
 デジャヴに苦笑いすると、レヴィオは肩を竦めた。
「カデンツァ、俺はお前に」
「謝罪はいらない」
 赦すのも、赦されるのも、俺じゃあないだろうレヴィオ。
 お互い忘れよう。
 絡み合った指が離れそうと知って縋ろうとしたことも、その手追い求めたことも全部。
「言い訳もいらない」
 レヴィオを赦すのはレヴィオ自身だと、彼も分かって居るだろうに。
「頼む。話があるんだ」
「俺にはない。なあ、逢わなかったことにしよう」
 冷たい言葉を吐き出していると思う。
「他人でいよう、それが一番いいと、俺は思う」
 今更、見て見ぬふりして過ごそうとする狡い俺。全てを赦す訳じゃあない。なかったことにしようとしているだけだ。
 今の俺を取り巻く小さくて狭い世界は、俺を何一つ拒まない。その代わり、俺に干渉もしない。
 もう、沢山なんだ。あんな事も、あんな思いも。
 今はひっそりと、息を潜めて、与えられた小さな居場所に縋っていたい。甘えなのは分かっている。それでも、もう少しだけこの居心地のいい場所にいたって、赦されるだろう。
 性玩具ではない、腕を買われて求められる俺の身体。この喜びが分かるか。
 エルヴァーンではない、小さなヒュームの身体。弱者を見下すエルヴァーンの修道士達の視線。俺という存在は、あそこでは人という個体ですらなかった。名前は識別されるための記号でしかない。だから名前を呼ばれるのは苦手だった。
「カデンツァ、ビシージが終わったら北門前で待ってる」
「いかない」
 そう強く言うと、レヴィオは腰のポーチから大事に仕舞っていたと思われる、色褪せた羊皮紙の束を取り出した。
「もっと早く渡すべきだった」
 なんとなく、これを受け取らなければならない気がして差し出された羊皮紙の束を掴むと、レヴィオは少しだけ安心したように微笑んだ。
「北門前にいるから」
 もう一度繰り返された言葉。
 息を飲むと、レヴィオが険しい表情で振り返った。鳴り響く警鐘。そして轟音。
 皇都が戦場に変わる瞬間。
「死ぬなよ、カデンツァ」
 空蝉を詠唱しながらレヴィオがナイフを構えた。釣られるように俺も羊皮紙をしまって剣を抜く。
 肩と肩が僅かに触れあった。背中が、やけに心強い。その背中が離れていく気配。
「レヴィオも」
 声は届いただろうか。


 

 

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