Alive/Onslaught

 





 道は変えられぬ。
 誰にも止められぬ。
 もはや引き返せぬ。
 喰らいし魔の力が喚起する、恐怖と魅惑を御す───


 遠くに思えるのに、まるで脳に直接響くような近い声。
 声の主の姿を視界で捉えることは出来なかった。朦朧とした意識の中、見えるのは目と鼻の先にある、冷たい海底遺跡の床。起きることすら出来ず、無様に彼の足下に這いつくばっているのが分かった。
 何処をどう歩いてきたのか、先ほどまで白門にいたはずなのに。記憶が飛んでいる。
「空の器と思っていたが」
 身体が重い。指一本満足に動かす事が出来ないほど、重たい。
 自分に何が起きているのか分からない。ただ分かるのは、自分が彼の差し出した手を取った、という確かな事実だけだ。
 もはや戻れぬ道と知れ。
 そう言われ続けていたにも関わらず、解放を願った。それがどういう事か、俺は分からないほど愚かだったのか。
「起き上がることもできまい」
 冷たい指。まるで人の温もりを持たない彼の指が、頬から顎を伝って撫でていく。
「それが貴様が喰らった魔の重さよ」
 声にならないため息。
「よくここまで人の姿をたもったと誉めるべきか」
 彼の言葉の意味。
 数多の同胞が、そうなるのを、───なっていくのを見てきた。
 そして、言われるがままに彼らをこの手で始末し、喰らった。次は、俺の番なのだと、かつて遺跡で俺が喰らったミスラが耳元で囁いて消えていく。
 人という器の崩壊。
 喰らった魔の力に溺れれば、魔はあっさりと牙をむく。喰らった魔に肉体が抗えなければ、この身体は、やがて人の形ではなくなる。それでも、器が魔を受け入れようと変容していくのは、ある意味進化だと言う。魔に堕ちたとはいえ、人としての最後の境界線を失って、それは果たして進化と呼べるのか疑問だ。
 このまま人としての崩壊を待つか、血肉を喰らってでも魔に抗い、藻掻き続けるのか。俺に突きつけられた選択肢はそのふたつしかなかった。
 安易な解放など、存在してなどいなかったのだ。
 期待したみっつめの選択肢など、あるはずがなかった。
 最初に手を取った時から。自分の運命を切り開くと信じた彼のあの手を取ったときから、俺は魔に魅入られていた。
 重たい指でゆっくりと描くザッハークの印。この身体に施された呪印と同じ紋様を、小さく遺跡の床に描いていく。魔法、と一言で分類されてしまうが、青魔法は赤魔や白魔が行使する魔法とは原理が異なる。長い詠唱を必要とはせず、それはむしろ召喚に近い。
 そして媒体は、俺の身体の一部。
「お返し、します。…器ごと」
「末期と知ってなお魔に身体を委ねるか」
 それでこそ、青魔道士だと。
 足掻いて、藻掻いて、明日という未来を捨ててでも目的を果たそうとする頑固たる覚悟。体中からわき上がる、魔が自分の肉体を内側から喰らい尽くそうする恐怖と、相反する魔に身を委ねる快楽。
 俺は何処まで耐えられるのか。
 こうして一度は手放そうとしながらも、必死でしがみつく姿は滑稽に映るだろうか。
 それでもいいと思える。俺は最後まで人でありたいと願う。
 這いつくばった身体をゆっくりと起こす。まるで床に縫い付けられたように重たい四肢が、悲鳴をあげながら俺の意志で動いた。
「…面白い」
 喰らうか、喰われるか。
 彼がそう言って喉を嬉しそうに鳴らした。

 全ての闇を拭うために。全てを終わらせるために。これ以上、蒼を産み落とさないために。
 ずっと苦楽をともにしてきた曲刀を強く掴んで引き抜いた。

 魔女は言った。
 明けない夜は、ないのだ、と。
 

 

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