ブンカール浦は、ジャグナー森林に隣接する入り江地帯だ。
ここには巨人族の海賊がキャンプしている。現代では冒険者に解放されておらず、ヴァンは初めての景色にしばし時間を忘れて見入っていた。
「ここ、好き」
行くよ、と背中に声を掛けると少しだけ名残惜しそうに視線を向けたまま、ヴァンはまた一緒に見たいな、と言った。涙腺が緩んだのを感じて隠すように先を歩き、ここは釣り場としても有名だったのだと、バストア海の海流の話をして誤魔化した。いいね、と笑いながらヴァンは後ろからそっと手を握りしめてくる。
今度はお前の故郷の方にも脚を伸ばそうか、なんて気の利いた言葉など出てくるはずもなく、無言のまま手を繋いで歩いた。その手はしっかりと握られ、離されることはないのだと、離すことなどあってはならないのだと思った。
吊り橋を越えて、オークのたむろするキャンプを抜けて、洞窟を抜ければそこはじめじめとした森林、ジャグナー森林だ。
ヴァンに軽くジャグナーはオークの砦になっていることを説明し、見つからないように北上することを伝えた。ジャグナー森林を抜ければ、そこはもうロンフォールだ。
今と昔では若干地形が違う。それは戦争の爪痕でもあり、快適に整備された街道であったりもする。良くも悪くもこの時代はまだ4カ国が初めて手を取り合った奇跡の始まりだ。これから冒険者の時代になるまでに要した時間は長い。
よき時代になったと思う。
忘れてはいけないが、知らなくてもいいと思う。むしろ、知らないでいて欲しい。
あの静寂を。
噎せ返るほどの血の臭いを。
迫り来る死の恐怖と、叫びたくなるほどの孤独を。裏切りを。
ヴァンは知らなくていい。
程なくして、湖の西側からロンフォールに抜ける見慣れた場所に出た。
若かったからか、まだ未熟だったからか、アラゴーニュ騎士団に配属された時、主な戦闘場所はロンフォールだった。いつ襲ってくるかもしれぬ獣人軍に怯え、緊張した眠れない夜を過ごした日々。背後には自国の城壁が見えるのにどうしてこんな心細いのだろうと何度も自問自答した。
戦うべき相手は獣人軍ではなく、死に怯える自分自身だったのだと今なら少し理解できる。
届かぬ癒しの魔法、傷ついて膝をつく友軍の姿。
目の前に迫るオークに立ちすくんだ二の足。
そして支援を失った友軍の、哀れな姿。
「アニス」
優しい呼びかけ。
嗚呼、こうやって一声、仲間に優しい声をかけてあげることが出来ていたら。彼らにもまたひとかけらの勇気を分け与えられたかもしれない。
「急ごう、刃物のぶつかり合う音がする」
手を、驚くほど強く握られて、はっとしてヴァンを見た。
強さとは爆発的な火力でもなければ、敵を打ち倒す武器の一撃でもないと気付かされたのはいつだっただろう。
真っ直ぐな瞳。ヴァンは強い。
僅かに遅れてヴァンの手を握り返し、頷いた。
「行こう、アニス」
ロンフォールでは既にいくつかの小競り合いが始まっていた。
戦闘を知らせる合図の角笛が、至るところで上がっている。すぐ近くで数名の兵士とオークが対峙していた。明らかに不意を打たれ、兵士達は逃げ腰だ。ヴァンはすぐに駆け出すと、武器を抜きながらそのまま切り込んだ。慌てて追いかけると、動揺していたサンドリア兵がその隙に立て直すのが見える。
味方の増援とはなんと頼もしいことか。
しかも、ヴァンの鎧はこの時代には珍しい深い青色だ。名のある騎士と思われたのかもしれない。
そんな小さな気持ちの問題で、戦闘の明暗が別れるなんてこの時は信じられなかった。だけど、実際に彼らはまた武器を取り、目の前の敵と戦おうとしている。まるでヴァンに鼓舞されるかのように。
つい口元が緩む。
「きもいなー何笑ってんの」
戦闘の最中だと言うのにヴァンはこっちを向いて冗談を飛ばす。
指揮官が取り乱したり、焦ってはいけない。基本中の基本だ。その余裕は周囲の空気まで変えてしまう。先ほどまで漂っていた緊張感は消え失せ、兵士達もなんとか数匹のオーク相手に奮戦していた。
「俺の恋人って凄いなぁと」
最後のオークにとどめの精霊を着弾させると、ヴァンは笑いながら武器を納めた。
「恋人って言われるとちょっと恥ずかしいね。家族、も、ぐっときたけど」
「聞こえてたのか」
「もちろん」
ヴァンは信頼してくれている。後方から自分が支援してくれるのだと、信じて疑わない。だからそれを見越して飛び出すのだ。逆に言えば、ヴァンがそうしてくれるからこそ、自分は長い詠唱を邪魔されず紡ぎ上げることが出来る。
信頼関係。
足りなかったのは、誤っていたのは、自分の力を信じることが出来なかった己自身。自分の支援があるからこそ、彼らは戦い傷つきながらも己を奮い立たせ剣を取るのだ。そして彼らが居るからこそ、自分は最大の力を発揮することが出来る。彼らを信頼できなかったわけではない、自分自身を信じることが出来なかったのだ。
裏切られたと思っていた。
だけど、実際はずっと裏切り続けていたのだ。
謝る相手は、今は居ない。だけど、この時代の自分ならまだ。
「お次は何処ですか」
「北上する」
ヴァンは頷くと振り返り、気をつけてね、と兵士達に声を掛けて小さく手を振った。
兵士達は驚き、そしてすぐに背筋を伸ばし、敬礼しながら返事をする。見習わなくてはならない。こんな些細なことでも、きっと彼らの緊張をほぐし勇気を奮い立たせただろう。
これがヴァンの持つ強さ。
「なんか俺人違いされてそう?」
「珍しい色の鎧だからどっかの指揮官だと思われたんだろ」
「なるほど、俺目立っていいね」
抜き身の剣をそのままにヴァンは小高い丘を駆け上がった。
シュヴァル川の流れが足音を消してくれる。オークはあまり耳のいい種族ではないが、匂いに敏感だ。水は匂いを消してくれる。
美しきシュヴァル川の流れ。美しき森、ロンフォール。
この時代の全員で守った美しき世界。
守って良かった。守れてよかった。この世界でヴァンと出会えてよかった。
自分たちの戦いは無駄ではなかったのだと、当たり前のことを気付かせてくれる。
「固まってる、まずいかも」
「まかせろ、引きはがす」
眼前に拡がる見慣れた戦闘風景。
その中に、すぐに分かる、僅かに怯えた少年兵。明らかに彼らは劣勢だった。食い止めている前線の騎士が崩れれば、後方の少年兵も倒れるのは想像に容易い。だが怯えるばかりで彼の支援は心許ない。
大声で罵りたくなるのを押さえ、腕を振り上げた。
紫電。
ヴァンの瞳と同じ光が、轟音を立てて複数のオークの頭上に炸裂した。その着弾と同時にヴァンの斧が振り下ろされる。突然の派手な乱入者に、オークも友軍も一瞬言葉を失うも、すぐにオーク達は目標を続けざまに巨大な水柱を打ち立てたアニスに変えた。それを横目で見ながら、ヴァンは傷つき怯える少年兵に目を向ける。
「よくがんばったね」
生気のない瞳に、まるで筆でないだように拡がる鮮烈な生の色。
嗚呼、そうだ。余計な言葉は要らない。
たった一言。
頑張ったね、その一言が、全てを肯定してくれる。
「もう少しだからもうちょっとだけ頑張ろう」
微笑みかけたヴァンに、少年は唇を噛みしめて何度もうなずいた。
記憶にあるのは、見たこともないような美しい白いローブの裾を大きくはためかせ、オーク達を爆炎と業火の中に沈めた黒魔道士。そして、笑いかけてきた自分といくつも変わらないであろう若い青鎧の騎士。
そうだ、そして二人は顔を見合わせて、笑って。
どこかへ掛けだしていくのだ。
「アニスかっわいーな」
走りながらヴァンは口元に手を当てて笑った。
「うるさいな、オーク後何匹だ」
「3かな、川でまける?」
そう言いながらヴァンは川に入ると、そのまま川下へ向かって掛けだした。身軽で突拍子もない動きをするヴァンについて行くのはそれだけで一苦労だ。少しだけ苦笑いしながらアニスもまたヴァンに続いて川を下った。
目に焼き付いた鮮明な青。
あどけない横顔からは想像も出来ないほど、繊細で強靱な切っ先。見据えた先にあるのはオークではない何か別のものかと思うほど遙か遠くを見ていた宵闇の瞳。
その傍らに立つ黒魔道士もまた、その騎士の背中を守るように遠くを見つめていた。
まるで絵画の中から飛び出てきたかのように、そこだけぼんやりと明るい。
その光は、進むべき道を与えてくれ、やるべき事を教えてくれた。
それはジュノ防衛戦後の、赤い血だけが鮮明なモノクロームな世界に色を与えた。戦闘の最中木々生い茂るロンフォールの森を初めて美しいと思った。木々のせせらぎを愛おしいと思った。
ここは守るべき、故郷の庭。
世界が色付く。
「もう少しだけ頑張って」
自分の目の前で盾になってくれている戦友にそう声を掛けると、短いが頼もしい答えが返ってきた。
この戦争が終わったら、黒魔道士の勉強もしよう。
そしていつか、彼らの見ていた遙か遠くを自分の目で見るのだ。
そのときには、自分にも背中を預けられる友人がいるだろう。
もしかすると、あの青鎧の騎士に従属しているかもしれない。
まずはこの戦いを生き残ろうと思う。
今まで沢山の戦いを共にした友人たちと一緒に。
そして終わったら、全ての戦いを共にし、散っていった戦友たちにこういうのだ。
お疲れ様でした、と。
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