溢れる。
溢れて、零れる。
カラナックと過ごした何年もの日々、全てがまるで水のように手のひらから溢れて消えていく。焼き付ける暇もないまま、ただ目の前を過ぎ去って、涙と一緒に流れてしまう。
なんていうんだ、これ。走馬燈だっけ。
目を閉じれば、まぶたにはカラナックの背中。
あぁ、もっとカラナックの裸しっかり見ておけばよかった。
筋肉がね、肩とか、腕とか、俺なんかとは大違いでさ。休暇で帰ってきてるはずなのに、ちゃんと毎日腹筋とかしてて。額から顎に伝う汗が、ほら、なんていうの。
輝いてた。
俺、カラナックが冒険に行くのが好きだった。冒険者のカラナックが好きだったんだ。
あの大きな手で撫でて欲しい。
あの太い腕の中に抱きしめられたかった。
「俺今泡になるより先に体中の水分なくなりそう」
隣の男は少しだけ困ったような表情で、俺の頭を撫でてくれた。
涙も鼻水ももう何時間止まってないんだろう。俺と慰めあおうとか言った男は、結局俺の話をだらだら聞いてくれてる。時折撫でてくれる手が優しい。
「でも枯れちゃいたい」
「そんなこと言うなよ」
また涙が一粒テーブルに落ちた。
この涙が涸れたら、ちゃんと話をしに帰らないと。
からになったお酒が入っていたグラスは、彼の手でジュースに変えられた。俺は今、ただの酔っぱらい。
カラナックも優しかったよ。あんたも優しいよ。あんたを振った人は、見る目ナイね。そういったら、もの凄い困った顔をされた。
「お互いさ、名乗ってなかったね」
「知らないままにしよう、その方がいい」
「そだね」
鼻水すすったら、ハンカチで顔を拭かれた。
「あんたをそんなに泣かしたやつの顔を見てみたい」
「ダメ、惚れちゃうもん」
「そりゃ残念だ」
だって凄く格好いいから。いやだよ。誰にも見せたくない。
俺だけの、俺にだけ高らかに響く挽歌。
ずっと待っていたかった。
離れていても、大丈夫だった。カラナックが必ず帰ってくる事を俺は知ってたから。
だから俺は待ってた、ずっと。
「そばにいて欲しかったんだよ」
「歌えば、届くかもよ」
「無理だよ、もう届かない」
「失礼」
その声と、逆光のシルエットに身体が震えた。殆どテーブルに突っ伏していた俺を、その影は腕を引っつかんで乱暴に引きずりあげた。
「ちょ、あんた」
男の制止を軽く振りきるその影は、大きな手で俺の腕を掴んでる。
もう、それだけで自分の中の全てが壊れて消えてしまいそうだった。
「これここの支払い」
テーブルの上にどう見ても多すぎるギルを置くと、俺の身体は引きずられるように酒場から連れ出された。
「ナック」
愛しい人の名前を呼ぶ。逆らえないまま、夜の闇に沈むジュノ下層に出た。
潮風が頬を撫でる。
カラナックは無言のまま、俺の腕を掴んで歩いた。自宅とは逆の方向へ。
「ナック」
「黙って」
もう一度呼ぶ。
振り返ったカラナックの方が、ずっと泣きそうだったのが印象的だった。
赤い月が、カラナックの肩越しに見えた。赤い月は、カラナックの頬を柔らかな薄桃色に染める。
「何から、話せばいいか」
そう言って言葉を止めたカラナックに俺は頷いた。
だって、俺も同じ気持ちだったから。
カラナックがここに来たって事は、ヴァンから事の顛末を聞いたのだろう。もしかすると、アニスが言ったのかもしれない。どっちにしても、俺がしたことは許される事じゃない。
あんなに怯えていた心が、今は何故か、酷く穏やかだ。
人魚姫が海に飛び込んで泡になったとき、きっと彼女の心の中もこんな感じに穏やかでいたのかもしれない。
覚悟ってやつ、かな。
「あのね、言わなきゃ、いけないことが。あるの」
それでもいざ本人を目の前にすると、中々言葉が喉から出てこない。
あれだけ饒舌に思い出を語った舌は、今は痺れてしまったかのように動かない。
「俺ね」
うん、と頷いたカラナックを見上げて笑った。
心の底から、愛しいと。
「あなたのことが好きです」
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