信じられるかい?
この俺が、ヴァンを目の前にして数日。
昼夜を問わず離れようとしないヴァンを目の前にして、キスしかしていないということを信じられるだろうか。
俺の理性ってすげぇーって自分で自分を誉めてあげたい。本当に。
30も半ばとはいえ、好きな人目の前にして、散々キスをねだられて、1日の大半を唇が触れあってるような状況で、何もしないとか拷問かコレは、と普通の人なら思うだろう。
だけど、俺に対してこんなにも無防備なヴァンに、あの男と同じ事をするのか、と思うとやっぱりそんなことは出来ない。
ヴァンはこんな俺の気持ちを知ってか知らずか、確かめるようにそっと頬を寄せたり腕を掴んでくる。それはまるで俺の存在を確認するかのようで心が痛んだ。額や頬に口付けると安心したように目を閉じるが、指先は常に俺を捜す。
自惚れても、いいよな。
だから、ちょっと、頼む。トイレ。
手、離すよ。
ほら、キス。
手を洗って部屋に戻ったら、ヴァンがソファに寝そべっていた。
眠たいのかな、そりゃそうか。ここ数日まともに寝てないもんな。起こしたくないけど、離れる気にもならなくて側によると手を広げて迎えられた。
だめ。この体勢だと俺がお前の上にのし掛かる事になるだろ。俺とお前の体重差は結構あると思うんだよな。潰れてしまっちゃ困る。
「俺そんなやわじゃないよ」
「へぇー」
その肉の落ちた細腕で、と言いかけた言葉は喉の奥で呑み込んだ。
テーブルの上の煙草を手繰り寄せて口にくわえる。その様子をヴァンがじっと見るから、ああキス出来ないからいやなのかなと思って火を付けるのを躊躇った。当然だがヴァンは煙草を吸わない。
むしろ、冒険者で煙草を吸うやつの方が少ない。
「煙草臭いキスは嫌?」
そう問いかけると、ヴァンは俺のくわえていた煙草を摘んで引っ張った。
「嫌いじゃないけど」
「けど?」
「アニスの唇が煙草に占有されてるのは嫌」
そう言って顔を寄せて軽く唇に自分の唇を重ねるヴァン。嗚呼。
ちゅ、という水音が聞こえるのが、触れるだけのキスの醍醐味。
そのまま吸い付くように唇を貪ると、ヴァンは遠慮がちに唇を開いてくる。舌先を絡ませ、他人の口腔を舐め回す、という行為がどうしてこんなにも心地よいのだろう。
そう思い続けて三日。同じ事を繰り返し、熱い吐息を感じながらも唇を離しては、また押しつける。
どこにも出かけず、食事すら適当に済まして近くに寄りそう。二人とも、冒険者用の端末はオフにしてある。邪魔されることなどない。
それだけ幸せで。
幸せすぎて。
未だかつてこんな満足した気持ちなど味わったことがない。
言葉に出来ないこの溢れんばかりの満足感、これが全てを満たしていく。
ベッドに横たわったままのヴァンに、顔だけ覆い被さるようにして口付けた。首にヴァンの腕が絡まって、引き寄せられる。首筋から甘い香りが漂ってきて、俺はつい首筋に齧り付いてしまった。
「ウン」
肩が跳ねて、小さな呻き声が聞こえる。シャツの下に手を差しいれ、脇腹に手を添えた。指先から伝わる体温。少しだけはだけたシャツの襟元から覗く肩口に口付け、舐めるように舌先が首筋を伝う。
強く吸い付くと背中が震えたのが分かった。膝が頼りなく揺れる。
「ア」
ヴァンの右手が唇を押さえた。
戦慄く唇。
そこで我に返った。
俺には、出来ない。
ゆっくりと身体を離すと、目を伏せたヴァンの頭を優しく撫でた。
「しないよ」
大丈夫、しない。そうもう一度繰り返すと、ヴァンは両手で口元を覆って嗚咽した。
怖がることはしない。望まないことはしない。
それなのに、ヴァンは声を詰まらせながら言うのだ。
「ごめん、ごめんなさい」
未だ癒えぬ深い傷を作ったあの男の罪は重い。
だがそれ以上に、その傷を薄汚れた指先で抉る俺は、最低だった。
久しぶりにベッドでぐっすりと眠って、目が覚めたら既に太陽は真上に来るような時刻。
俺の腕の中で一緒に眠ったはずのヴァンは、泣き疲れたのかまだ目を覚まさないようだ。背中を抱えなおして、肩までシーツを引っ張り上げると、小さな声が漏れた。
サイドボードに乗せてあった端末を手にとって久しぶりに起動させると見るだけでぞっとするような量のメッセージが着信していた。8割が冷やかし。残り2割が安否を気遣うメッセージ。適当に選り分けて、重要そうなものだけに目を通す。
クェスから、そろそろ戻ってくるのだろう、と短いメッセージが来ていた。
監獄から戻って、四日。その間何をしていたかなんて、誰にも説明出来そうにない。
寝ているヴァンの額に唇を押し当てた。
眠っているとヴァンの顔はやけに大人びて見える。多分、あの大きな目が閉じているせいか。笑うと随分幼く見えるから、年齢を聞いても結構信じられない。こうして寝顔をじっと見たことなどなかったのもあって新鮮だ。
髭薄いな。睫、意外と少ない。
短く刈った髪の毛を指ですくって口付ける。
「好きだよ」
好きなんだ。なあ、この言葉は重荷か。
俺が好きって言ったから、優しいお前は断れなくて、必死に応えようとしてくれているのじゃないのか。俺は無理させてないか。
昨夜、少しだけ事を焦りすぎた俺。
ヴァンは声を詰まらせて泣いて、何かを言いたそうに開きかけた唇はすぐに閉じられる。大丈夫か、と問いかけると、謝罪の言葉と一緒に、伏せた目で無理に笑う。そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
絡ませた指先は冷たくて、不安が触れあった場所からヴァンに伝わっていく気がする。しっかりと握り替えしてくる手を信じられずに、俺は唇を寄せてその不安を誤魔化すように愛の言葉を囁くのだ。
なあ、ヴァン。
お前のこと好きすぎて、俺はどうしていいのか分からなくなってる。
隣に居られればいい、なんて思っていたこともあった。共に歩んでいける人生を、と。
だけどやっぱり、触れたい。キスしたい。抱きしめたい。
口付けが甘く心地良いことを知ってしまったから。
その柔らかな唇の感触を知ってしまったから。
その腕が、俺の首にまわされる満足感を味わってしまったから。
俺は自分勝手で、馬鹿みたいに強欲だ。
結局、それ以上触れることも出来ずに、翌日俺達はぎこちないままそれぞれの生活へ戻った。
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