なんでこんな事我慢しているんだろう。
自分は馬鹿だ。
自分のレンタルハウスの前に立って、ヴァンはどうしていいか分からずに立ちつくした。
「おかえり」
そう声を掛けてきたのは、扉の前で座っていたアニス。
殴られた痕を手で隠してみるもそんな行為は意味をなさない。
「テルしたら、お前逃げただろ?」
アニスは立ち上がると、少しだけ躊躇いがちに手を伸ばしてきた。ヴァンは無言のまま逃げることなく、アニスの手を受け入れる。後頭部に回された手が、ヴァンの頭を引き寄せて胸に閉じこめた。
「そうやっていつも殴られてたのか」
まるでアニス自身が傷ついたように、苦しそうな声がヴァンの耳に届いた。
「いや今日だけ、なんか機嫌悪くて…」
目を閉じてそう囁く。
耳の後ろや、顎をなぞるアニスの指先が、柔らかく温かい。その淡い光は低級の回復魔法だ。見かけの傷は塞いでくれる、その場しのぎの魔法も今は随分と苦痛を和らげてくれた。
「カギ、くれ」
ヴァンはポケットから自室の鍵を取り出すと、そのままアニスの手のひらの上に落とす。
カギを受け取ったアニスはすぐに部屋を扉を開けると、ヴァンを抱えるようにして中に入った。中にはいると、緊張の糸が切れたのか、ヴァンは崩れるようにして床に腰を落とす。同じようにアニスも側で腰を落とし、ヴァンの背中をさすった。
「あんま見られたくなかったな」
そう言って自嘲気味に笑うヴァン。
「うまく、隠してきたのに」
顔を覆った腕が震えた。上半身を折り、床に額を押しつける。
「お前が望んだ行為じゃないだろ」
「…好きで男相手に脚開いてない」
そう言うとヴァンは小さく舌打ちした。
「クェスには誤魔化しておいて」
「ちゃんと最初から話してくれ、ヴァン」
「話したって、どうにもならない」
絞り出すような声。
突き刺さるようなヴァンの視線にアニスは息を飲む。
「我慢するって決めた」
堪えきれずにアニスはヴァンを抱きしめた。ヴァンの身体が強張ったのが分かったが、アニスは離さなかった。指先に込められた力は痛いほどに強い。数ヶ月の間に痩せた体が、驚くほどヴァンを小さく見せていた。
「俺はいやだ」
いやだ、と何度もアニスは繰り返す。
「嫌だ、お前がそんなことを我慢しているのを見ているのは嫌だ」
抱きしめたまま、唇をヴァンの額に押し当てる。
「な、んでアニスが、泣くんだよ」
「気付かなかった俺を許してくれ」
頬を寄せ、唇は瞼に降りた。
「我慢するしかなかったことに気付いてやれなかった」
アニスから零れた涙が、ヴァンの頬に伝った。
「何ヶ月我慢してたんだ。俺はその間お前の何を見てたんだ」
後悔が溢れる。
「なんでこんなになるまで」
殴られて僅かに腫れた頬。傷つけた唇の端。
涙と血が伝った痕。この数ヶ月何度も泣いたのだろう。
「何いってんだアニ…ス」
呼んだ名前は降りてきたアニスの唇によって塞がれた。
重なっただけの唇。
「お前が好き」
囁かれる切ない言葉。
言ってはならない言葉を紡いでしまった唇は戦慄き、アニスはつらそうに目を閉じた。
「好き」
もう一度重ねた唇から、ヴァンは逃げることはなかった。
唇を離してアニスはヴァンの肩口に自分の額を押しつける。
「俺を呼んで」
ヴァンの唾液を呑み込んだ喉の動きが頬を通してダイレクトに伝わってくる。
ヴァン自ら伸ばされた腕が、アニスの背中にまわされた。コートを強く掴んだ指に、細い腕に、力が込められる。
「俺の、名前呼んで」
ヴァンは唇を噛んだまま、アニスを呼ぶことはなかった。ただじっと、耐えるようにアニスにしがみついていた。
「ヴァン…」
───好きか嫌いか、そう問われれば好き。
だけど友達と恋人の境界線ってなんだろうか。身体の関係だろうか。それとも精神的なもっと深い何か、か。
束縛を許容すること?深い繋がりを求めること?どれにも当てはまらない。
そもそもそんな線引きが必要なのだろうか。
今俺の手を握ってるのは誰だ。
今俺が抱きしめているのは誰?
それが答えでいいのだろうか。
そう思うのに答えはまだ出せなかった。
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