逢魔が刻。
夕暮れの高層ビル。その影に存在するうち捨てられた雑居ビルが建ち並ぶ一角。繁華街からそれ程離れてもいないのに、表の喧噪からは想像も出来ないほど寂れている。そこに引かれているのはあきらかな境界線だ。
沈みゆく夕日が雑居ビルの看板を照らし、窓を茜色に染め上げた。
日が暮れる。染みこむように迫る闇。抗うようにぽつり、ぽつりとともる街灯。
ここは新宿。
人の姿をした魔物が闊歩する街。
電話の呼び出し音が鳴り響く。
ソファから伸びた手がテーブルの上をまさぐるも目的のものは見当たらず、無造作に置いてあった空き缶を床にぶちまけるに至った。微かな舌打ちにかけられるのは冷たい言葉。
「なにをやってるんだ」
床に転がった空き缶をひとつ手に取った男はそのまま事務机の上で鳴り続ける電話を取った。
「はい、如月探偵事務所」
テーブルに伸ばされた手が所在なさそうに揺れ、ようやくソファの上に身体を起こし腰掛けた男───如月美佳はテーブルを囲む昨夜の残骸にため息をついた。無造作に放り出された眼鏡をたぐり寄せ、空き缶の数を指折り数える。
無機質なコンクリートの壁。壁掛け時計の針は午前7時を指していた。
事務所兼自宅となっている雑居ビルの二階、おあつらえ向きの怪しげな探偵事務所。
周囲は殆ど人の訪れないような倉庫や崩壊寸前のビルばかりで昼間であっても人の気配はない。そんな辺鄙な場所にも関わらず、面倒事は向こうから舞い込んでくる。行き場所を失った、他の事務所では最初から引き受けてくれない、または彼らの手に負えない案件がここには集まってくる。
いつしかここはその手専門の”普通ではない”頼み事をする探偵事務所という迷惑極まりないレッテルが貼られた。
「起きたか」
電話を切った男がメモ用紙を揺らしながら近づいてくる。
「何故お前がここに居る」
あからさまに不機嫌だと分かる声で美佳がそう言うと、男は笑いながら肩を竦めた。
「いやだなぁ、出勤前にわざわざこんな辺鄙な場所に仕事持ってきてあげたのに」
悪友、辻聖崇はそう言って分厚い封筒をテーブルに置いた。先ほどまで笑っていた表情は一瞬にして険しくなり、封筒に乗せられた手が重たい。美佳はぴりぴりとした空気が肌を突き刺すのが分かった。
「依頼者は俺」
美佳が頷くと聖崇は眼を細め、ゆっくりと封筒から手をどける。代わりに美佳が手を伸ばそうとするのを聖崇はゆっくりと遮って、先ほどのメモ用紙を手渡した。後で読め、そういう事らしい。
「こっちはマンション建設予定地で相次ぐ作業員の溺死」
マンション建設予定地と溺死。あり得ない組み合わせの言葉に美佳は眉間に皺を寄せた。脳が言葉を拒む。
「水道管の破裂か、それとも地下水か井戸でもあったか」
「理由があるならお前の所に電話なんかこない」
反論するために口を開き書けた美佳を人差し指で制して、聖崇はメモ帳を指さした。
「後でかけ直すと伝えてある」
メモには名前と電話番号。
「じゃあ俺は行くからな」
仕事しろよ、と強く念を押し、聖崇はネクタイを締め直すと事務所を急ぎ足で出て行った。
先ほどまで事務所全体を覆っていた騒々しさはたちまち消え失せ、後に残るのは静寂。
物心ついたときより両親の姿はなく、祖父と名乗る人物しか傍にいなかった美佳にとって、世界は狭く、静かで、常に孤独だった。偶然とはいえ辻聖崇と出会い、他人と居ることを一度容認してしまえば、居なくなったときの失った熱の名前が寂しさだと気付くことは容易い。
床に転がった空き缶を拾い上げ片付ける。
目の端に止まる聖崇の置いて行った封筒。
聖崇の職業は検察官だった。
知り合ってから長いが、今まで聖崇が担当した職務内容について、当たり前だが美佳は助言を求められたことも意見を求められたこともない。ましてや資料を渡されたこともなかった。
資料が詰まっていると分かる分厚い封筒を手にとって、美佳は躊躇った。
しっかりと封がされているこのテープを剥がせば、聖崇も美佳も後戻りできない。内容が個人的なものであればよいが、聖崇は内容には一切触れなかった。迷い犬や浮気調査の類ではないことは明白だ。すぐに開封しようとした美佳を無言で止めた聖崇の行動の裏には、よく考えてから開封しろという意味が込められていたとみて間違いない。
美佳は封筒をもう一度テーブルに置くと、隣のメモ用紙を手に取った。
メモに記された相手は、件のマンション管理会社だった。
度重なる不可解な事故により現在建設工事は中断しており、有識者による調査から、怪しげな祈祷師までありとあらゆる手を尽くしたが事態は改善せず、案件は巡り巡って美佳の元へと繋がった。
担当責任者だと名乗る相手からあからさまな不信感を電話越しに突きつけられ、美佳は苦笑いするほかなかった。それでも藁にでもすがりたい状況なのだろう、すぐにでも逢いたいという相手の要望を美佳は聞き入れた。
紹介者の名前は言わなかったがこの業界は思いのほか狭い。依頼を受けた祈祷師の誰かが、自分には手におえないからとこちらに話を振ったのだろう。
出かける準備をしていると、事務机の電話が鳴った。
「はい、如月探偵───」
電話越しに凛と響く声。
それ、はまるで鈴が鳴るように美佳の名前を呼ぶ。
「御祖父様」
久しいな、との言葉で美佳はこの案件が何処から自分の元にやってきたかを知った。
美佳は今から出かけることと、急用なら終わり次第かけなおす旨を手短に伝えると、相手はあっさりと終わった頃にこちらから出向くとだけ言って電話を切った。
祖父のことを深く考えてはならない。
世の中には考えてはいけないことがあるのだと、美佳は物心付いてすぐに悟った。疑えば疑うほど自分自身の存在が信じられなくなっていく。
如月美佳とは一体何者なのか。
本当に自分はここに存在しているのか。
解けないパズルではない。むしろ解いてはならない類だ。それはあけてはならないパンドラの箱にも似ている。だがいずれ好奇心に負けて開けてしまうだろうその箱に入っているのは、世界の災厄でも恐怖でもない。
入っているのはただの真実だ。
目をそらしたくなるほどの。
建設予定地近くにある、古い喫茶店。
迎えた男は若い探偵を名乗る美佳にあからさまな猜疑の視線を投げかけた。手早く挨拶を済ませ、美佳が形式上持ち歩いている名刺を渡すと警戒心は幾分か和らいだように見えた。
「肩書きはご立派なようですが」
肩書きだけは、と言いたかったであろう男を遮って美佳は本題を促す。男は少しだけ目を細めると、珈琲で唇を湿らせると話し始めた。
マンション建設予定地で最初の事故があったのが八ヶ月前。それから現在に至るまでの詳細な資料を交えながら、男は的確に順を追って説明した。別の相手に同じようなことを何度も繰り返してきたのだろう男の説明は分かりやすく、無駄がなかった。いくつか質問事項を手帳に控え、男の話が終わるのを待つ。
「質問はありますか」
その言葉で美佳が身を乗り出した。
「建設予定地は以前なんだったのでしょう」
「駐車場です。ですが空き地を駐車場にしていた、と言った方が正しい」
この都心に、空き地。
「その前は分かりますか」
「詳しいことは分かりませんが、板金工場だったかと」
どこからともなく聞こえる水の音。水漏れ。溺死。問題のなかった土地で起こった一連の事象。
その中心にあるのは───水。
「工事を始める前、そこには木がありませんでしたか」
木、ですか。そう呟いて男は考え込んだ。思い当たるものがないことが見て取れる。
「植えてあるものでなくても構いません、根でもいい。木に関係のあるものはありませんでしたか」
「そういえば」
男が指を拡げ、これくらいの、と続ける。指と指の間は大体10cm程度だ。
「木片が大量に出てきました」
明らかに同じような大きさに人の手によって加工されているであろう木片。
「木炭かと最初思ったのですが、そうじゃない。板状で、ほぼ同じ大きさだったので、薪かなにかだと思って処分してしまいました」
水害か、もしかすると水子。少なくとも水に関係するものを鎮める目的の木片だと美佳は思った。
「木火土金水」
聞き慣れない美佳の言葉に男が訝しげに顔を上げる。
「五行の理、と言います」
五行の理とは木火土金水の前後が互いに強弱の関係を表す。
木は火に弱く、火は土に弱い、土は金に弱く、金は水に弱い、そして水は木に弱い。強弱だけでなく、木は火を呼び、火は土を呼ぶ。土は金を引き寄せ、金は水をひきつける。
元板金工場跡地、水を鎮める木片。建てられるのは鉄筋作りの高層マンション。水を呼ぶ土地。
明らかに異常なものを見る目で男は美佳を見据え、そしてややあって視線をテーブルに戻した。美佳にとっては慣れた視線だった。今更動じない。
「おたくも地鎮祭とかやるでしょう。それと同じなんですがね」
最先端技術の粋を集めた超高層ビル建設時も、工事を始める前にその土地の氏神様に土地の使用を許して貰う。科学がどれだけ発達しようとも、人の根底に根付く信仰はなにも変わらないのだ。理由を知っているかはともかく。
「あれは工事の安全祈願で」
口籠もった男は信じられないとでも言いたそうに手を組むと額を押し当てた。
「建設場所、見たいのですが」
「ご案内します」
最初に逢ったときよりずっと丁寧に差し出された手が、美佳にはやけに奇妙に映った。
建設現場は徒歩で10分と掛からない場所にあると言う。
元板金工場値後に埋められた木片は、明らかに水を意識したものであることがうかがわれた。誰がいつ頃、どんな目的で木片を埋めたのか分からないが、埋めた人はある程度五行の知識を持っていると言うことに他ならない。本来であれば木を植えることでも対応出来たであろうが板金工場では植えることも出来なかったのだろう。
戦時中井戸でもあったか、それともその場所になにかが居たかだ。
シートで覆われた建築途中の鉄骨に人影が見える。男が慌てて走り出した。追いかけるように美佳も後に続く。
何人かの怒声、作業員数名が道路側に逃げ出すように飛び出してきた。
「何をしているんだ、工事は一時中断だと連絡が」
男が声を張り上げると同時に、美佳の耳に聞き慣れない音が飛び込んでくる。
水が滴り落ちる音。
どこかで水が跳ねる音。
直後唸るような轟音と共に、地中から水が吹き上がった。
水道管の破裂かと思わせる水の勢いに作業員が散り散りに逃げるのが見える。男は混乱を鎮めようと奔走するが一旦パニックとなった現場がその機能を取り戻すのに掛かる時間は計り知れない。
逃げろ、だとか名前を呼び合う声が飛び交う。
地下水脈でもあるのではないか、それとも知らない水道管が存在しているのかもしれない。馬鹿馬鹿しいとは言い切れない憶測が次々と口からこぼれだし、避難してきた作業員たちが吹き上がる水柱を見上げた。
「ちょっとすみません」
美佳がそう言って一人の作業員に声を掛けた。
明らかに場違いな雰囲気を持っていた美佳を訝しげに見つめ、作業員は今それどころじゃないと吐き捨てるように言った。
「水をとめますよ」
不敵に笑った美佳を頭のおかしな人間を見たかのように作業員は眼を細めた。一歩前に出る美佳の肩を掴み、危ないからと開きかけた口を片手で制した美佳は言った。
「そのコーラの缶貸してください」
「あんたは水道会社の人か」
ネクタイを弛め、缶の中身を地面にあける。作業員は一瞬抗議の声を上げかけて、そしてすぐに黙った。
周囲にあふれていた音が遠ざかり、風が凪いだ。
空気が震えるように声が響く。
「土御門家如月が頭主、如月美佳」
始まる。何がとは分かるはずもないが、その場に居たものは何かが始まるのを肌で感じた。
空になった缶を土に置いて、美佳はそっとその口に指を置く。ごう、という音と共にまるでその場所が一瞬水の底に沈んだような感覚に作業員たちは顔を見合わせた。
「おいで」
周囲に満ちていく水の気配。
溺れる。パニックに陥った数名の作業員がその場で座り込む中、美佳は靴の先で地面を一度だけ叩いた。その瞬間、周囲に満ちていた水の気配も、打ち立てられた水柱も全てが一気に空き缶へと吸い込まれていく。実際吸い込まれたわけではないだろう。だが水はその小さな缶に収まった、ように見えた。
ちゃぷん。
どこかで水の跳ねる音がして、止まっていた時間が動き出す。周囲の喧噪が戻って来る。水の気配など何処にもなかった。
「水は」
恐る恐るそう言った声に美佳は空き缶を取り上げ軽く振ってみせる。
水だけではない、何かが中にいる。それがなんであるのか誰も聞くことが出来ずにいた。
「ちょっとこれこぼさないように持っててください」
美佳から缶を受け取った作業員は、多分その場に居た全員が同じ事をしたかったであろう、缶の中に目を凝らした。だが缶の中が見えるはずもなく、何かが泳いでいると分かる感触だけが手のひらを通して伝わってくる。
美佳は近くの自販機に向かい、同じ銘柄の飲料を買うと足早に戻って来た。
「はい、お返ししますよ」
新品の飲料と交換するように何かが入った缶を受け取ると、美佳は満足した様子で笑った。
「もう水が出てくることはありません。それではごきげんよう」
軽く手を振った美佳に、作業員が全員で手を振り返す。
一人、我に返った建設会社の男が慌てて美佳を追いかけた。
「如月さん、これは一体」
「ミヅチです」
男の皺の寄った眉間が全てを物語る。
「水神ですよ、水の蛇神。水の恵みや災害を引き起こす神様です」
聞いた自分が愚かでした、と小さくこぼした男はその場で深く頭を下げた。
「有り難うございました。助かりました」
歩みを止めて美佳も軽く会釈する。
「いいえ」
ちゃぷん。
応接間の床に置かれたバケツの中には一匹の白い蛇が悠々と泳ぐ。
「狭かったろ、お前がいると知ってたら準備もしていったのに」
美佳の声に白い蛇は嬉しそうに身体をくねらせる。
この小さき神は元々あの辺り一帯の土地神か守神だったのだろう。いつしか土着の信仰は息を潜め、祀った社も壊され、鉄筋造りの無機質な建物が乱立するようになった。行き場所を失い、僅かに残った場所で長い時を過ごしていた蛟(ミヅチ)も最後の場所が奪われることをよしとしなかった。
「お前、俺のものになるか」
バケツに手を入れて美佳がそう語りかけると、蛟はゆっくりとその手に身体を擦りつけ、頭を垂れた。嬉しそうに尻尾が水面を叩く。美佳がネクタイを外し、濡れた手を拭いてソファに腰を沈めたところで突然事務所の扉が無遠慮に開けられた。
「邪魔するぞ」
そこには年の頃10歳ほどの子供が立っている。
「御祖父様」
慌てて立ち上がり、美佳は彼を迎え入れた。
どう見ても御祖父様と呼ばれた彼の容姿は子供にしか見えず、和装も相まって祖父という呼び名に相応しくはない。だがその表情は子供のそれとは明らかに違った。
「そろそろかとおもうてな」
「どういうことでしょう」
インスタントの珈琲を作る美佳を横目に祖父と呼ばれた子供は我が物顔でソファに腰掛ける。
「片付いたのであろう」
無言が肯定の証。
彼は持っていた風呂敷をテーブルに乗せ、美佳を呼びつけた。
「孫を労って寿司を持ってきたというのになにを拗ねておるのだ」
大げさにため息をついてみせる祖父に美佳もまたため息をついた。
彼は最初から怪異の原因が分かっていた。その上であえて美佳に仕事をまわしたのだ。その真意は自分が出るまでもない、取るに足らない案件であるということに他ならない。祖父のことだからそのついでに美佳の腕を試したのだろう。これでは気分良く祖父を迎えられるはずがない。
「何を勘違いしているか分からぬが」
「勘違いではないでしょうに」
「美佳、お前は火を操るが気性は水の子。水の怪性に好かれる稀なる子」
「火を操ったことはありません」
「やり方を知らぬだけのことよ、いずれ知る。此度のこと、お前でなくばこうもあっさり片付いてはおらぬ」
美佳、そうもう一度優しく祖父が呼びかけた。
「私はいまだ暫く隠居する予定はないゆえ、それまで好きにするがよい」
そう言って彼は袖から分厚い封筒を取りだし寿司桶の上に重ねた。
「先方より届けられた。明後日にでも改めて礼をとも言付かっておる」
彼は小さな手を美佳に向かってあげる。怪訝な表情を見せる美佳に小さく手招きした彼は、近づいてきた美佳の頭をそっと撫でた。
「よくやった」
傍目から見れば子供が父親の頭を撫でるような光景。だがその撫でる手はひたすらに優しい。何も言えなくなり、美佳はそのまま黙った。
幼少の頃、祖父について疑問に思った事などなかった。だが自分が成長して行くにつれて姿形の変わらぬ祖父に疑問を持つようになった。一年、半年、三ヶ月、背が伸びて変わっていった美佳と、まるで時間という軸から漏れてしまったかのように変わらぬ祖父。気がつけば使用人の顔ぶれもなんら変わらない。
あの家では、美佳だけが時間の流れに背いていた。
それに気付いたとき、恐ろしくなり祖父に問うた。何故みなが変わらないのかとではなく、何故自分だけ成長するのかと問うたのだ。祖父は笑って、この世に正常なるものなどひとつたりともないのだよと言った。その意味も分からないまま、いまだ疑問は胸の内で燻っている。
全ては夢か現か幻か。
歪んだそれが知りたくて飛び出した。答えはまだ見つかっていない。
「ところでその蛟は蒸すのか、蒲焼きか」
美佳の頭を撫でながら、彼は小さなバケツに視線を向けて嬉しそうに言った。驚いたように水が跳ねる音。
「食しませんよ」
「食さぬのか」
がっかりした様子で項垂れた祖父に、美佳は寿司桶の中から穴子を握らせた。
「鰻がよい」
「どうせ一人では食べきれません。好きなものを食べたらいいじゃないですか」
そう言うと、彼は満面の笑みで玉子に手を伸ばした。
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