腹の底から何ものかが這い出てくるような感覚だった。
掴まれた腕の先から、身体の中の何かを引きずり出される、まさにそんな気配。自分が内側から変わっていくというのに、その心地よさに抗えない。いっそ全てを委ねてしまえば楽になるのだろうと理解していても、その最後の一歩が踏み出せなかった。踏みとどまらせたものは、多分、人としての最後に残った何かだ。
自尊心か、執着か、それとも未練か。
なんだってよかった。分からないそれが、俺を寸前でとどまらせた。
必死で突きだした切っ先が、俺に手を差し伸べたあの人の喉に深く突き刺さるのを。
吹き出した返り血が、全ての終わりを唄うのは、きっと同時。
悲しい。哀しい。だけど、愛しい。
喰らって我がものにした魔が、全てを組み伏して思うがまま行使してきたはずの魔が、今度は俺の身体を好きなように弄んだ。それは内から壊されていく感覚。骨が砕けようとも、筋肉が捻れようとも、俺がただの肉塊になるまで彼らはこの身を喰らい尽くす。その痛みに泣き叫んでも、彼らは次々と現れ、俺の全てを奪っていった。
思考が定まらなくなって、自分の身体が最早自分のものではなくなったと感じた。
既に痛みすら感じないのに、かつて人であった身体を思い出して噎び泣いた。彼を屠ってしまった今、いったい誰がこの俺を止めてくれるのか。無に還してくれるのか。
自分の血の臭いが徐々に正気を奪っていくのを、遠くで、ただ感じていた。
名前を呼んだ。
呼んだんだ、確かに。
助けて欲しかったのか、殺して欲しかったのか、ただ、逢いたかったのか。そんなことすら分からないのに、全身で叫んだ。それが人の言葉だったかどうか、分からない。ただの魔物の咆吼だったかもしれない。
でも、呼んでしまった。
呼んでしまったんだ、レヴィオ。勝手に縛り付けて、勝手な言い分で置いてきたあんたを。
身勝手な俺は、再会した後もあんたを縛り続けて、残酷な後始末を頼んだ。そうやってずっと後始末を、汚いものを押しつけて、でもあんたは嫌な顔ひとつしないで。それでも俺とともにいてくれようとしたあんたに、俺は。
音を立ててレヴィオの手の甲に落ちた涙の雫が、手首に向かって流れていく。
魔物となり果てた身体は簡単に死を選ぶ事は出来なかった。それどころか、自分一人の問題と思い込み、周りをたくさん傷つけた。犠牲になったのは、いつだって犠牲になるのは、レヴィオだった。
誰かが運んでくれた傭兵用の救護施設。
窓から外を見上げれば、雨は上がったというのに分厚い雲が空を覆う。まるで開かないレヴィオの瞳のようだった。何度繰り返し謝っても、レヴィオは目を覚まさない。ここに運び込まれたとき、呼吸は既に止まっていたと聞いた。
このこめかみに出来た傷も、頬の傷も、肩を抉るような傷も、脇腹に出来た深い刀傷も、全部俺がつけたのだろう。レヴィオは約束を果たしに来てくれた。だけど、俺はまだ、人でいる。生きている。俺の中にいる魔は、息を潜めている。
この魔の再生能力を分け与えられたなら。
だけどそれは不浄なる蒼の世界に身を落とすという事に他ならない。そんなこと、出来るはずもなかった。死を望んだ俺が生き延びて、レヴィオが傷つく。俺は罪深く、この手は血にまみれている。こんな手で、レヴィオの手を握り還す資格などない。
きっとまた俺はこうやって、レヴィオを傷つける。
生きている限り、蒼の衝動と飢えから逃れる術などないのだから。
そっと力を抜いてレヴィオの指から自分の指を引き抜こうとすると、まるで追いかけてくるかのようにレヴィオの指に力が籠もった。瞳は固く閉ざされたままだというのに、レヴィオの手は俺の指を離すまいと懸命に握り締めてくる。
「いくな」
掠れた声がそう言った気がした。慌ててレヴィオを見るもその目は閉じられたままだった。
無理だ。俺はまたあんたを喰らうかもしれないのに。
「ダメだ」
指に力を込めて、レヴィオの手を離す。
ごめん、ごめんなさい。許して。
立ち上がった拍子に足で椅子を引っかけてしまい、椅子は大きな音を立てて床に転がった。指先から離れたレヴィオの手が、ゆっくりと下降しベッドの端で止まる。
離してしまった、手。
こんなに強く掴んでくれていたのに。
レヴィオから後退るようにしてベッドから離れる。
「さよなら、レヴィオ」
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