驚いて先に身体を離したのはおれの方だった。
見開かれたモンブローの視線から先に目をそらしたのも。
悪い─────どうかしていた。
そう言い繕うはずの言葉は、眩暈と主に真っ白になって消えた。踏ん張りのきかない両膝から力が抜けて、一歩後退ったつもりが、無様に床に膝を付く。慌てたモンブローが差し出した手はおれの腕を掴んだものの、そのまま俺は床に座り込むようにして崩れた。
白んだ景色が徐々に輪郭を取り戻していく。
詰まっていた息を吐き出し、慌てて身を屈めたモンブローを見上げても、うまく彼の顔を見ることは出来なかった。だけど、次の瞬間。身を乗り出したモンブローの唇によって、おれは完全に言い訳のタイミングを失う。
啄まれるように吸われる唇が水音を立てた。
何度も何度も重なっては離される唇と、時折吐き出される熱いため息。
吐息が、絡み合う。
あぁ、おれたちは親友だったのに。
床についた手にモンブローの手のひらが重ねられた。それはきっと逃げるな、という意思表示。もう、逃げるな、と。一度逃げ出したおれにモンブローは態度で語りかけてくる。
「ウォルフ」
繰り返される名前。
言葉を象った唇の動きが、唇を通して伝わってくる。
こんな呼ばれ方なんて、したことがなかった。
「ごめん。ごめん、ちゃんと言って欲しい」
立てた襟を指でよけられて、モンブローの指先がそこに残されているであろう痕を抑えたのが分かった。鏡で見た、はっきりと首筋に残った鬱血の痕。それがどうやってつけられたものかなんて、誤魔化しようがない。
「僕は覚悟くらい出来てる」
「なんの」
覚悟だ、と言いかけた唇が、モンブローの唇で押さえられた。
しかし考えても見れば、確かに親友が勤め先の上司に組み敷かれている、ということを受け入れるのには相当な覚悟が必要だ。しかもその上司は同性で、このジュノを治める立場にある人物であればなおさらのこと。相手のことを薄々勘付いているのか、モンブローの深い瞳がおれをじっと見つめた。
唇を押さえる指は、きっとモンブローの覚悟の現れ。
それが離されたとき、おれは────…
「婚約者が、出来たんだろう?」
「何を言ってる」
眉毛を八の字に下げ、まるで泣きそうなモンブローの、想定外の問いかけに思わずそう言った。
「違うの、か」
あからさまな安堵をみせるモンブロー。
どういうことか分からないのはこちらのほうだ。
「はは、よかった。よかった、僕の早とちりだ」
「……婚約なら祝え」
思わずそういうと黙ったままずるずるとモンブローはおれにもたれかかり、肩口にその顔を埋めた。手は俺の背中に回され、まるで抱かれているようで落ち着かない。動けないままおれは首筋にモンブローの吐息を感じた。唇が押しつけられ、軽い水音を耳に届けたモンブローにおれは肩を竦めて見せた。
「ここまでしておいて弁解の余地もないけれど」
気付いているんだろう、君も。
喋るたびに、モンブローの唇がおれの首筋で動く。
「僕は君が好きだ」
あぁ。
何かが、崩れた。それは近くて遠い、互いの間にあったジュノブリッジかもしれない。
「祝えない。ムリだ。僕は、君の婚約を素直に祝えないよ」
「いや、してない。婚約してないから」
鬱血の痕を何度も吸われる。まるで、上書きだ。鋭い痛みと、じわりと滲んだ熱。
「勘違いじゃないんだ。僕は君を友人ではなく、一人の男として、ずっと愛してる」
いつしか唇は耳元で、モンブローは囁くようにおれの耳に愛してる、と繰り返した。
おれは何も言えなくて、ただなすがままにモンブローの腕に抱かれていた。
「あいしてる、今までもこれからも」
胸の奥でじわじわと広がっていく熱。
長い時間をかけて離れていた距離が、ゆっくりと縮まった気がした。だけどそれはモンブローが歩み寄ってきただけで、おれはあの時から一歩も動けずにそこに立ち止まったままだ。受け入れることも、受け流すことも出来ずに。
不意に頬に触れてきたモンブローの手に、自分の手を重ねた。
「お前だったら、よかったのに」
本当に、お前だったらよかったんだ。
広がった熱が、押し寄せてくる。まるでそれは嵐のように。高い波のように。
仕事なのだ、仕事なのに。あれは仕事だった。
なのになんでこんなにも苦しい。
モンブロー、苦しいんだ。
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