träumend

 



 
 部屋に響くは小さな水音。

 用意されたいつもの湯浴みに使うバスタブ。
 白い陶器であつらえたそれに心地よい温度の湯が薄く張られ、入ろうと身を起こしたラズファードを止めるように、リシュフィーと呼ばれた男が軽々とその身体を抱え上げた。頼りない雰囲気の割には、不滅隊を名乗るだけはあるのだろう。
「失礼します」
 そう声をかけられて、髪や頬に飛んだ精液をそっと拭う指は熱い。
 指の腹でなでるように拭う心地よさに思わず目を閉じた。そうやって優しく触れられるのは何年ぶりなのだろうか。もはやそんな感覚などとうの昔に忘れてしまった。
「湯加減は大丈夫ですか」
「そんなこと聞かれたこともない」
 思い返せば確かに熱すぎることも、冷めることもない湯だった。
 今も。
 腕に絡みつくような湯を、本当に撫でているのではないかと思うほど優しい手のひらが指先まで触れていく。
 ラウバーンとの行為は、痛みや苦しさの方が快楽よりも強い。
 そして、ジャルザーンもラウバーンも己の快楽を求め、果てればそれで終わりだ。長く、じわじわと浸食されるかのような責め苦に果てそうで果てることのできない苦痛。彼らはそれを助長することもなければ、ラズファードが先に果てようとその行為が終わることはない。そのことを思い知ってからは、自ら快楽を求めることはせず、ただ身を任すことが多くなったように思う。
 全てが終わった後、身体の奥に吐き出されたものを、ラウバーンの指が掻き出していく。そのときに、まるでついでの儀式のように、無理矢理射精を促されるのだ。痛みに果てることすら叶わず、燻った内にこもる熱はこの時にあっけなく解放される。まるで、そうされることを待ち望んだかのように。
「大丈夫ですか」
「湯は大丈夫だと」
 もう一度聞かれ、しつこいなと思いつつため息混じりにそういうとリシュフィーは少しだけ目を伏せる。
「いえ、湯ではなく」
「…あぁ、気持ちいい」
 素直にその優しい指先に感想を述べると、リシュフィーは布越しに分かるほど困惑の表情を浮かべ慌ててうつむいた。こんなのが本当に後始末できるのだろうか、と怪訝な顔で見つめてやると、見ないでくださいとか細い声と拒絶の手のひら。
 馬鹿にしているのか。
「お前、面白いな」
 表情がころころと変わる。不滅隊のくせに。
 そう続けるのも嫌みのようで、ラズファードはリシュフィーの口元を覆う布を引っ張った。耳の奥にかけられた留め金が音を立てて外れる。
「私の前では外せ」
 押さえられていた茶色の髪が頬にかかった。耳まで赤く染まったその顔はまだ若い。
 深い海色の双眸は、全てを見透かされているようで居心地が悪かった。それでも目が離せないのは、なぜだろう。
「お前のその目」
 じっと見返してくる真っ直ぐな目。
 居心地が悪いのは、目を反らしたくなるのは、真っ直ぐに見返してくるからか。
「美しい色だな」
 生きた人の目だ。
 アミナフの水晶のような作り物めいた色とも、ラウバーンの何処を見ているか分からない深い緑とも違う。
 暖かい。海のようなのに、暖かいのだ。
「僕は、ラズファード様の漆黒の瞳が好きです」
 今度はこちらが困惑する番だった。
 この男は、このあの女と同じ黒の瞳を好きだという。忌々しい、この黒髪、黒い瞳を。日の光を浴びてもなお、黒であり続けようとするこの深い闇色を。
「お前は変わっている」
 まるで不滅隊とは違う。ラウバーンの人形どもとは違う。
 面白い男だ。久方ぶりに、ラズファードはその唇に笑みを浮かべた。

 長い湯浴みを済ませ、微睡むようにぬくめられたベッドへと身体を滑り込ませる。
 リシュフィーはその様子をじっと伺うように見ているだけだ。与えられた職務は自分の後始末をすること。後始末は終わった。彼がここにいつづける理由はない。
「帰らぬのか」
 そう声をかけると、リシュフィーは肩を竦め、小さく護衛も申しつけられております、とだけ言った。
 思わず鼻で笑った。ラウバーンが、この自分を、護衛させるために見えるところに不滅隊を置いていくなどとは。
「いらぬ、どうせアミナフが近くにいる。それに護衛ではなく、見張りと正直に言え」
 そう言うとリシュフィーは黙った。
 結局のところ、彼の存在はラウバーンの目に過ぎない。護衛という名目で、監視の目を置いていくという自分への牽制だ。自分が居ないことをいいことに、自分が余計なことをせぬようにするためのただの枷。人という形をとった鎖だ。
「夜通しそこに突っ立っているつもりか」
「はい。いやですか?」
 力なくそう答える男は不滅隊とは思えない。
「好きにしろ」
 ここ十数年、寝るときに誰かがそばにいたことなどない。
 身体にまとわりつくあからさまな視線を感じることもあるが、それは側にいるわけではなかった。リシュフィーの、不滅隊とは思えない気配がありありと伝わってくる息づかいを感じる。誰かが部屋にいるという不思議な感覚。
 目を閉じても寝入ることの出来ない、別の意味で困った気配だ。
 何度かの寝返りの後、リシュフィーが近づいてくるのが分かって身体が強張った。
「やっぱり、僕が居ると眠れませんか」
 深いため息。
「誰かが側にいるのが久しぶりすぎてな。お前、酒は飲めるか」
「勤務中です」
「つまらない男だな、一杯くらい付き合え」
「ですが、僕は」
 ベッドから起き、近くに隠してあった秘蔵の酒を取り出す。これを取り出すのも久しぶりだ。
 以前はよく飲んだものだが、最近は行為の後といえば疲れ果ててすぐに寝てしまう事が多く出番が減った。それだけ慣れてしまったという事だろう。
 熱く疼く身体を持て余したまま、眠れない夜を酒に頼ったのはいつだったか。それを教えたのもラウバーンだった気もする。記憶とは嫌なものだ。余計なものばかり覚えている。
 グラスを取るのも億劫になって、瓶ごと唇に当ててそのまま呷るように喉に流し込んだ。
「ラズファード様」
 咎めるような声が近くで聞こえたが聞こえないふりをした。
 お前には分からないだろう。今、私はとても気分がいいのだ。
 そう、言ってやりたい気もしたが誤解されそうでやめておいた。他人と過ごす時間が、空きっ腹に染み入る酒のように熱く心地よいと思うのは、リシュフィーの持つ和やかな雰囲気のせいか。
「お前が気に入った」
「はぁ」
 なんとも情けない返事が聞こえて、苦笑いする。
「気分がいい、お前の側でなら眠れそうだ」

 そう微笑んでみせると、事もあろうにリシュフィーは真っ赤になって俯いた。