Kiss you/Scourge

 



 秋も深まり、ジュノブリッジにも随分と冷たい風が吹き込むようになった。
 少しだけ季節にはまだ早い、フードのついたコートに身を包んで、ヴァンは巨大な時計塔を見上げる。約束の時間までまだ少しあった。日が暮れ始めると気温は一気に下がる。帰路につく時間には、冬とさほど変わらない気温になるだろう。

 ルルゥから、色々と教えて欲しいことがある、と連絡が来たのが20分前のこと。30分後に上層のいつもの酒場で待ち合わせ、と半ば一方的に押し切られて、アルザビで寝ていたヴァンは慌ててジュノまで戻って来た。
 少しだけ冷たくなってしまった指で、アニスに「ルルゥと飲んでくる」とだけメッセージを送り、ヴァンは端末を畳んだ。
 アニスはまだ眠っているだろう。昨日しこたま飲んだ後、明け方になって調子に乗ったシェルメンバ達と、皇国軍的には公に出来ない翡翠廟における特務、所謂”プークの幻影”と呼ばれる作戦を連戦したのだ。終わってみれば昼をまわっていて、全員翡翠廟から逃げるように飛び出してアルザビに戻り、ベッドへと倒れ込んだ。
 体力的にも衰えが見える、いい年齢の大人達が夜通し遊び歩いたわけだ。全員今頃まだ夢の中だと断言できる。
 特にアニスは、何をどうしたのか一人だけ特務の報酬が格別だったから、きっといい夢でも見ているに違いない。涎を垂らして眠るアニスを想像して、口元が不自然に歪むのを感じ、ヴァンは思わず視線を地面へと下ろした。こぼれる笑いを何とか押しとどめ、顔を上げると風が強くなってきたのを頬で感じる。
 今夜はもしかすると荒れるかも知れない。
 空を覆う分厚い雲を見上げ、ヴァンはようやく約束の酒場に向かって歩き始めた。



 ヴァンが酒場に入ると、奥のテーブルからすぐにルルゥが手を振った。
 既にルルゥは酒場にいたらしく、奥の一番にいい席にヴァンを手招きする。視線をテーブルに移せば、重ねられた羊皮紙の束、半分ほどあいたエールと空になりかけたおつまみが見えた。ヴァンに連絡を入れた時点で、ルルゥはここに居たのだ。
「悪い、待たせた」
 まばらとはいえ、この時間にしては人の多い店内を、ヴァンは縫うようにしてルルゥの元へと向かう。椅子を引いたヴァンに、もう一口しか残っていない炒り豆の皿を寄せて、ルルゥはいつものように笑って言った。
「俺が呼びつけたんだから気にしないでよ」
 顔をのぞかせたウェイトレスにエールの追加注文をすると、ヴァンはコートを脱いでルルゥの隣に腰掛ける。
 羽ペンとインク。そして羊皮紙の束。吟遊詩人のルルゥがそれらを持ってする事といえば、ひとつしかない。
「唄書いてたのか」
「ううん」
 ルルゥは軽く否定すると、羊皮紙の束を畳んだ。
「これは日記だから」
 いいんだよ、と。ヴァンが椅子に座ると同時に、ウェイトレスがエールを持ってきて、ルルゥはさっさと皮の表紙を付けると羊皮紙の束を仕舞いこんだ。確かに冒険者用の端末にはスケジュールや日記を編集するような機能は備わっていない。だからというわけではないが、ルルゥが日記を付けているのは初耳だった。
「お前って日記付けてたっけ」
 置かれたマグとマグを軽く重ねて、金属質の音を響かせる。
 何がお疲れなのか分からないが、とりあえずの乾杯の言葉はおつかれ、だ。ルルゥも同じようにおつかれ、と言って笑った。
「ぜんぜん」
 つけるわけない、と言わんばかりにはっきりと否定して、ルルゥはまた笑った。
 ルルゥは読み書きが苦手だ。それは生い立ちのせいでもある。独学とはいえ、今でこそ世間にありふれる言葉はある程度読めるものの、やはり本を読んだり、タブロイド紙を読んだりといった事は全くしない。それは書く方も同じで、ルルゥの歌は譜面とも歌詞ともいえない不可解な記号がずらりと並ぶ。
 俺が歌うんだから、俺が分かればいいんだよ。
 そう言われて、なるほど、と納得したのは記憶に新しい。
「聞きたいことって、文字?」
「いやそういうのもあるけど、色々。他にも」
 手招きされて、ヴァンはルルゥの口元に耳を寄せた。

「エッチって、どうやってするの、とか」

 大きな音を立ててヴァンは唇に当てていたマグをテーブルに落とした。口にエールを含んでいなかったことだけが幸いで、どうにか取り繕って聞き返すも言葉はうまく紡げない。
「どう、って、どうって」
「ほら、やりかた、とかさ。いつもヴァンがやってることでいいから、教えてよ」
 頬が急激に熱くなるのを感じて、ヴァンは思わず頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
 腰の後ろがじわりと、その感覚を呼び覚まして熱を帯びる。思い出すのは自分の想像出来ないような喘ぎ声や、揺れる膝、突き抜けるような快楽。どうやってるのか、なんて言われて答えるのも難しい。もし、突っ込む方であるなら、まだ教えようもあっただろうけれども。
「なんなら場所かえようか?」
「うん、えっと、いや」
 小柄な身体に似合わない、ルルゥのごつごつとした男の手がヴァンの肩を撫でた。楽器を扱うルルゥの手は、その華奢な体躯からは想像も出来ないほど大きくてしっかりとしている。ヴァンはその手に自分の手を重ねた。
「あのさ。何か、あった?」
 ルルゥが口籠もった。
 ルルゥがこんな事を聞いてくることは今までなかった。
「いや、何も別に。ないけど」
「けど?」
 もごもごと言葉を濁すルルゥにヴァンは続きを促した。
「かわいそうね、って言われた」
「誰が」
 思わずヴァンは身を乗り出してルルゥを覗き込む。その剣幕に僅かに身を引いたルルゥだったが、すぐにヴァンの顔を見上げるように顔を近づけると、小さく囁くように言った。
「ナックが」
 そのままがっくりと肩を落としてしまったルルゥは、大きな背もたれに背中を預け、目を閉じてお手上げのポーズをしてみせた。聞けば、カラナックの知り合いにまだやってない事を言ったら、それじゃあカラナックも可哀想だ、と言われたらしい。
「そう言うのは知り合いっていわねえだろ」
「でもさぁ」
 それがどういう状況でそんな話になったかは分からなかったが、少なくとも他人が推し量れる問題ではない。
 カラナックとルルゥの関係を一言で表すのはとても難しい。それはこれだけ一緒に居るヴァンが思うのだ、多少の顔見知りでは理解出来ない、と言ってもいい。
 ようやく彼らは親子、という殻から抜け出して、一人の人間同士としてつきあい始めたばかりだ。例えるなら、手を繋ぐことすら躊躇われるような恋愛をしている最中なのだ。それに関してカラナックが特に無理や我慢をしているようには見えない。むしろ、ルルゥの方が迫って、カラナックがまだ早いよ、と突き放すというのにだ。
 こう言うのは周りがどうこう言うものではない。本人達のペースでゆっくりと幸せになればいいのに、どうして他人はこういう事になるとお節介にも余計なアドバイスを押しつけてくるのか。ヴァンがため息をつくと、ルルゥがテーブルに顎をのせてヴァンを見上げる。
「我慢、させてるのかな、って思う事はあるんだ」
 俺はそういうことに知識的にも疎いし、幼稚なのは分かってる、とルルゥは苦笑いすると続けた。
「さっきの日記さ、逢えない間に色々書きためて、逢ったときに交換してんだよね」
「交換日記!」
 口に出してヴァンは桃色の雰囲気が辺りを包み込んだのを感じた。
「そう、そそ、それそれ」
 少しだけ恥ずかしそうにルルゥが笑う。
「読んだり書いたりすると俺の勉強にもなるし」
「今頭の中でミュモルちゃんが踊った」
 不自然に歪んだ口元を隠すためにエールのマグを握ったままヴァンは俯いた。そのヴァンの頭を軽く叩いたルルゥは、自分のエールを飲み干してテーブルに頬杖をつく。
「俺はさ、今日あったこと、例えばヴァンと飯喰いにいったとかさ、飲みに行ったとかかいてんだけど」
「ナックは違う?」
 頷くルルゥ。
「ナックは早く逢いたい、とか、俺の作ったアレコレ食べたいとか、そんなの」
 俺の事ばっかり、逢ってもないのに、とルルゥは呆れ顔半分恥ずかしさ半分の顔をした。真似するようにルルゥの頭を撫でてやると、少しだけ考えて口を開く。
「いつもさ、帰ってきたらご飯食べてリビングでお喋りして一緒に風呂入ってぎゅっとして貰って一緒に寝る」
「不満?」
「全然」
 首を横に振ってルルゥはため息をついた。
「でもナックは可哀想」
「ナックは不満って言ったの?」
「言わないよ」
 ルルゥの青い瞳がヴァンを覗き込んだ。数回瞬きを繰り返し、さらに顔を近くに寄せ、まるで唇を重ねるかのように顔を傾ける。ヴァンが身を引くと、ルルゥは眼を細めた。
「俺ヴァンが羨ましい」
 思わずヴァンは聞き返す。
「俺も、したい」
 アニスに抱きしめられた手の温かさを不意に思い出して、ヴァンは唇を噛みしめた。ルルゥは酷くつらそうに、ヴァンをじっと見つめる。ルルゥの悩みは本人たちでなければ解決出来ない事だ。ヴァンがアレコレと口を挟む問題ではなかった。
「俺のくちびる、みりょくない?」
「は、───え?」
「ちゅーってしたくならない?」
 唇を突き出すようにしてヴァンに身を乗り出すルルゥを必死で押さえ込み、椅子に座らせるとヴァンは大きく首を横に振った。
「俺がしたくなってどうすんだよ!」
「そうだけど」
 一応大人しく椅子に座ったルルゥは、不満そうにヴァンを横目で睨む。
「俺だってちゅーってしたいんだ。おでこでもほっぺでもなく、ちゃんと唇に」
「いいなよ、そのままその通り」
「この間言ったら、笑っておでこにキスされた」
 ヴァンは思わず吹きだした。
 カラナックのルルゥへの子供扱いは今に始まったことではないが、それが彼なりの愛情表現なのだということくらいルルゥだって理解しているのだろう。親子だと言い張っているのは最初から本人達だけだ。
 だけど今その親子だった壁がルルゥの邪魔をしている。
 カラナックの自制心を突き崩すのは容易ではないだろう。だけど、ルルゥも少しずつ歩み出しているのに、カラナックだけが立ち止まっているのはどうなのだろうか。アニスなら、きっと無理矢理奪え、と言っただろう。
 だけどヴァンはそう言うことが出来なかった。それが最善だとは思えなかった。
「なあ、さっきの日記にさ、毎日書いちゃえよ」
「なんて?」

「キスしたいキスしたい、キスして!」


 

 

End