Time Passed Me By/Envy

 

 


 家族としてではなく。
 友人としてでもなく。
 一人の男として、一人の人間として、俺は、あなたが好きです。

 初めてサンドリアで声を掛けて貰ったとき。
 薄汚れた薄いチュニック一枚で寒さと飢えで震える俺に、温かな手を差し出してくれた。
 ラテーヌ高原の谷間で、上空に浮かび上がるタンポポと一緒にみた虹を忘れない。無理矢理ついていったバルクルムで、ゴブリンに追いかけられて砂地に倒れた時も。初めて二人で乗った、セルビナからマウラへの蒸気汽船での星空を。
 メリファトで骨の上から手を振ったことも。
 サルタバルタの星降りの丘で夜を明かしたことも。
 パシュハウ沼の夜明けで涙したことも。
 アットワ地溝の山頂から見た景色も、猛吹雪の中上ったウルガランも全て。
 都会の酒場で初めてあなたに歌ったことも、全部忘れない。
 あなたが見せてくれた世界を。あなたが話してくれた世界を。俺は忘れないだろう。
「だからね、家族にはもう戻れない」
 考えた事なんかなかったんだ。
 カラナックが、俺以外の人と一緒になって家庭を持つとか。恋人作るとか。俺以外の人が待つ場所へ帰ることになるとか。考えれば考えるほど俺は耐えられそうになかった。でも、それがカラナックの幸せなら、俺は笑って送り出すよ。頑張るよ。俺は一人でも大丈夫だよ。
「ごめんね」
 だから。
「最後に、唇にキスちょうだい」
 こんな気持ちはそれで泡にするよ。
 唇に、と言いながら必死に涙を堪えて唇を噛みしめてしまった。目を閉じるとカラナックの大きな手が俺の頬を撫でる。本当なら、物語の主人公は最後王子様に真実のキスを貰って結ばれるのに、このキスは滅びのキスだ。まるでリセットボタン。でも俺たちはずっとセーブされ続けてるから、リセットボタンを押しても続きはここからなのに。
 やり直しなんか、できないのに。
 今この瞬間の気持ちをリセットしたがってる。
「俺はさ」
 頬に添えられた手が優しく耳を、頬を撫でていく。カラナックの低い優しい声。
「今までお前をずっとまだ子供だと思ってた。お前にはまだ分からないと、そう思ってた」
 何を?
「なぁ、ルゥ。このキスが最後なら、俺はしないぞ」
 なにを…?
 目を開けた。
「でも、もしお前がこのキスを始まりだと思ってくれるなら何度でもする」
 カラナックの顔が近い。
 綺麗な、虎目石の瞳に俺が映ってる。唇が。
「俺は終わりにしたくない。何処にもやらない、逃がさない」
 まだもつれた糸が絡み合ったような頭の中で、カラナックの声だけが響いた。
 人気も疎らなロランベリー側で強く抱きしめられる身体。
「ねぇ、俺馬鹿だからわかんないよ」
 カラナックの背中に腕を回して引き寄せる。
 言って。
 お願い。
 それは俺の待ち望んだ言葉かな。
 俺はリセットボタンを押さないですむのかな。
 ねぇ、言葉でちょうだい。
 俺にも分かるように。
「好きだよ」
 耳元で囁かれたその言葉が、俺の膝から力を奪った。
 違うリセットボタンを押された。カラナックの腕から滑り落ちるように石畳に座り込む俺。
 まだ、泣いちゃダメだ。
 俺たちは話さないといけないことがまだ沢山あって。俺は伝えてない思いも、沢山あって。言葉に出来ないほど愛しい気持ちを、とにかく伝えないと。俺、こんなにもあなたが好きなんですって言わないと。
 そして、そしてヴァンに謝らないと。
 なのに、あれだけ流した涙はどこからともなく無限にわき出てきて俺の顎を伝って落ちていく。
 言葉も、声も、全部形にならなかった。まるで赤ん坊のように、泣いた。
「5年分の話をしよう、ちゃんとしよう」
 差し伸べられた手。
 あの時サンドリアで蹲っていた俺に差し伸べられた手と同じだ。
 俺は最初からこの人を選んでいたのに。
「俺と、今から恋をしてくれますか」

 そう掠れた声で言うと、カラナックは泣きそうな笑顔で俺の手をしっかりと握った。

 



 帰り道、追いかけてきたと思われるヴァンと会った。
 その後ろにはアニス。ヴァンの唇についた傷が消えていたから、きっとアニスが治したんだろう。ヴァンは自分の傷には無頓着だ。彼は白魔道士でもあるから、そういうところがあるのかもしれない。放っておけば治るよ、とでも言うかのように。でもそれは時として痛々しくて見ていられない。
 傷つけてしまって、ごめん。
「ヴァン、ごめ」
 そう言いかけた俺に、ヴァンは凄い勢いで走ってきて、俺をぐーで殴った。
 あたりに響いた音は凄かったに違いない。驚いたカラナックが倒れる俺を支えてくれて、慌てた様子でアニスが肩で息をするヴァンを抱えて押さえた。
「俺は。俺はナックと話をしろって言ったろ!」
 殴られた頬は凄く痛かったけど、俺はカラナックの支えを押しのけてヴァンの前に立つ。
「ごめんなさい」
 そう言ってじっとヴァンの瞳を見つめたら、大きな宵闇の瞳が不意に潤んだ。
「心配、した」
「うん、ごめん。ごめんなさい」
 アニスがヴァンの身体を離してくれて、俺はそっとヴァンの睫毛にたまった涙に触れる。
 羨ましかったんだ。真っ直ぐにアニスと向き合えるヴァンが。素直に甘えてみせるヴァンが。
「俺、ヴァンのことも大好きだよ。ナックの次に好き。本当にごめんなさい」
「俺、も、ルルゥのこと好き」
 嗚呼もう、そんな言い方するとアニスが嫉妬するよ。
 俺はアニスの次でいいからね。ごめんね、大好きだよ。
「いっぱい傷つけてごめんね」
 零れそうな涙を、唇で吸い取るとアニスがヴァンの身体を引っ張ってしまった。
 涙を舐めようとした舌が何もない宙を舐める。
 そこまで許した覚えはない、と引きつった表情のアニスが見えた。ヴァンは何故引っ張られたのか分からなくて訳も分からずアニスを見上げている。その様子がおかしくて、おかしくて。


 俺は久しぶりに大きな声で、笑ったんだ。

 

 

 

End