Ratsbane/Onslaught

 





 気がつけば窓の隙間から朝日が部屋に射しこんでいた。
 マクヴェルの姿はなく、ただひたすらに重たい腰が昨夜の出来事を一つ一つ思い出させてくれる。身体を起こすと隣にきちんとたたまれた革鎧。上に見覚えのある紙兵が置いてあり、走り書きで”これはお前のものだ、おめでとう”と小さなマクヴェルのサインがあった。
 脱ぎ散らかしたと思っていた他の部位も丁寧に揃えてあり、愛用の曲刀と共に小振りの見慣れない短剣が置かれていた。美しく目を惹くその装飾が革鎧のそれと似通っており、この短剣も東方のものだということがうかがわれる。明らかにマクヴェルの忘れ物ではない。
 最後だと分かっていてあえて言わなかった。多分お互い理解していた。
「ある意味形見、かな」
 腰の後ろに短剣を鞘ごと固定すると、それは元から革鎧の一部であったかのようにぴたりとおさまった。
 準備を終えて階下に行けば、船の時間にはまだ早いからと無理矢理食堂に通され朝から豪勢な食事に囲まれてしまった。余計に金貨を渡した分なのだろうが、こちとら昨夜の疲労感で食欲どころではない。なんとか食べられそうなものだけを胃袋におさめ、礼を言って逃げるように宿を後にした。
 船着き場からは昨日の倉庫が見える。
 遠くで汽船の音がして、堤防に波が当たって潮の花が舞う。これでこの街に用はなくなった。もう訪れる事もないだろうこの町には、いい思い出なんて何一つ無い。
 まとわりつく潮風はアトルガンを思い出す。
 早く帰ろう。
 ゆっくりと接岸した魔道汽船に乗り込んで、三等船室の隅っこで身体を丸めた。暫くして鳴り響く汽笛と緩やかな振動。岸を離れていく感覚。
 耳に届くのは、遙か遠い波の音。




 ───いつものように見下ろす蛇王広場の噴水。
 ピークタイムを逃したのか、珍しく人も少なければ募集も少ない。今日は食いっぱぐれた、と腰を上げようとしたところを聞き覚えのある声が遮った。
「暇ならリンバス行かないか」
  声の主を見上げることなく、俺は視線を床に落としてため息をついた。
「あ、なんだよ。俺のこと忘れちゃったのか、薄情だな」
 昔のように差し出された手を掴み、立ち上がる。
「覚えてる」
 真っ直ぐに見上げれば、そこには変わらぬ───多少年は取った、彼がいた。
「何年ぶりだ。お前は変わらないな」
 嬉しそうに眼を細め、彼は笑う。
「目は」
「治療の効果があってさ」
 以前ほどということもないけれど、と彼は目を伏せる。
「久しぶりに古巣に戻ったらお前を見付けた。どんな遠くからでも分かるよ、お前の事は」
 なんと返せばいいのか分からず言葉に詰まった。
「で、行くの、行かないの」
「本気なのか」
「俺はいつでも本気。今はリンバス流行らないのか、他何やってんだ。お前の事だから色々やってんだろ」
「マクヴェル」
 蛇王広場の喧噪が、波が引いていくように遠ざかって行くのを感じた。
 あの頃に戻ったように、あの時こうして声をかけてきてくれたように。だけど、今はお互い別の場所に立っている。もうあの頃のようには戻れない。あの頃の立ち位置には戻ることが出来ない。
 分かるだろう、マクヴェル。
 あんたも左手の薬指に見えるそれで立ち位置は大きく変わっただろうに。
「俺はもう色々とごめんなんだけど。昔ほど我慢強くない」
 そう言ったらマクヴェルは腹を抱えて笑い出す。
「変わらないのは外見だけだな、お前変わったわ」
 言葉では謝りながらも、実際は何一つ悪いと思っていないはずだ。昔からマクヴェルはこういう男だった。どうしようかと考えていると、偶然競売に向けて走っていたと思われるツェラシェルと目があった。
 俺は男運が悪いと思う。
「カデンツァ?」
 あからさまに不審者を見るような目つきでマクヴェルを見るツェラシェル。俺にとってはどっちも大して変わりないと思ってたりするけど。口には出さない。
「どうかしたのか」
「別に」
 そう呟くように言ったら、聞こえてたのかマクヴェルが吹きだした。
「古い知り合いだよ、怪しいモンじゃない」
「そうか、すまなかった」
 立ち止まってしまったツェラシェルが明らかにマクヴェルを警戒しているのが見えて少しだけ面白い。何度も言うが、不審者という意味では俺にとってはどちらも大差ないわけで。奇妙な状況にそれなりにおもしろみを感じていたところ、今度は階下から声が掛かった。
 今日はこういう日らしい。
「カデンツァ、トロルたちが動き出したぞ」
 朱い髪が風に揺れた。視線を移せば目が笑ってる。
 これはこのどうしようもない状況を見かねた助け船だ。間違いない。
「行く」
 差しのばされた手を握り、階段を大きく飛び越えて着地する。走り出す前に振り返り、マクヴェルに向かって手を挙げた。
「じゃあね」
 やっぱりマクヴェルは笑いながら手を振り返す。
「ありがとう」
 言葉は届いたのか。多分届いた。
 遠くでルリリがツェラシェルを呼ぶ声がする。
 俺はもう一度だけ、小さく、手を振った。


 

 

End