Q052.top or bottom.../Onslaught

 



 

 俺は今この瞬間、自分のなかにあった常識を塗り替えざるを得なくなった。
 アラパゴ暗礁域。
 死者の軍が本拠地にするこのアラパゴ諸島は、暗礁域という名前の通りいりくんだ湾になっていて、多くの船が座礁した魔の海域とも言われる海の難所だ。俺自身は随分昔から通っていることもあって今では迷うこともないけれど、最初は随分と方向感覚を失ったものだ。
 そんな場所だから一般的な冒険者は余程の理由がない限り、暗礁域まで足を伸ばすことはしない。そもそも暗礁域に来る理由が一般の冒険者にはないとも言う。それほどまでにこの海域は冒険者の手に余る、厄介な場所ということだ。
 俺がここに来る理由は軽い食事と死者の軍に囚われた捕虜の解放。
 食事はともかく、捕虜の解放は鍵さえ手に入れば身軽なソロのほうが都合がいい。いつものように牢の前を見張るクトゥルブを殺し鍵を奪い、牢のある施設に滑り込む。
 後は牢をひとつひとつ確認し、囚われた捕虜がいれば解放するだけだ。
 アラパゴのいやらしいところは牢のある施設がこの海域にいくつもあることだった。ひとつの場所にいなければ別の牢へと向かわなければならない。当然鍵も違うから現地調達になる。
 捕虜の解放は市街戦で比較的軽傷だった有志によって迅速に行われる。だがこの地形や鍵の調達が難しいアラパゴ暗礁域においてはその有志も尻込みしがちで、大体いつも決まった顔ぶれがアラパゴ暗礁域の捕虜奪還に動いているのが実情だった。
 ラミアの視線をかいくぐり、牢に人の気配がするかひとつひとつ確認していく。
 捕虜が生きている可能性は三日以内なら五分。死者として、兵士として使うためだろう、毎回大量の捕虜をお持ち帰りする死者の軍は皇国軍にとって非常に厄介であり、早急な対応が求められていた。だが市街戦においてもっとも被害が大きいのも対死者の軍であるため、捕虜奪還に人員を割けずなかなか難しい状況でもある。
 最後の牢を確認しようと岩の陰からラミアの気配を探ったとき、耳慣れた吐息が聞こえた。
 視線を牢のほうへと動かせば、青い血だまりに無残に潰されたラミアの鱗が見える。気配を押し殺し、ゆっくりと牢入り口へと移動して、岩をくりぬいたような部屋の中を覗き込んだ。
 そこでは不思議な光景が繰り広げられていた。
 銀髪の逞しいエルヴァーンの男が、金髪のヒュームにのしかかられているのだ。文字通りだが、エルヴァーンの開かれた足と、その間にいるヒュームの動きでどんな行為をしているかすぐに分かった。殆ど裸同然のエルヴァーンに対し、ヒュームは全身鎧を身につけたままなのも違和感を加速させる。
 いや、違和感の正体はそんなことではなかった。
 それは俺の常識が覆った瞬間だったとも言える。
 今まで俺は、ヒュームはエルヴァーンに捕食される存在だと思っていた。簡潔に言うと、ヒュームはエルヴァーンにとって突っ込む対象なんだと思っていた。肉食動物が草食動物を捕食するように、ヒュームにとってエルヴァーンは常に天敵であり、逆はありえない、と思っていたのだ。
 そんなけして小柄といえないエルヴァーンが、ヒュームにいいように弄ばれている光景は衝撃的だった。
 汗を軽く拭い、ヒュームはエルヴァーンの足を抱えなおすと大きく揺さぶる。眉をひそめたくなるような野太いエルヴァーンの悲鳴。腰を震わせ、顔を覆うエルヴァーン。その手首には捕虜である証とも言える木製の手枷がついていた。
 揺さぶられるたびに固く握られた拳が色を失っていく。
 捕虜を助けた見返りに。確かにそんな話も聞かなくもないが、この目で見るのは初めてだった。その背景には皇国軍から支払われる捕虜奪還の報酬が安いことなどもあるのだが、命に値段をつけることが出来るのかという倫理観の問題は俺にとってはもっとも遠い位置にある案件な上、色々と考え出せばきりがなく、皇国軍の懐事情も相まって報酬事情は曖昧なまま今に至っている。
 そんなことを考えながらその光景を呆然と見ていたら、ヒュームが俺の存在に気付いた。
「捕虜奪還か、お前」
 こんな状況下であっても自然に冒険者同士が声を掛け合うように言われて、俺は頷くことしか出来なかった。
 エルヴァーンの男は俺の存在に目を見開いて、そして枷で顔を覆うように体を丸めた。そんな行為もすぐにヒュームによって暴かれていたが。
「ああ、一足違いだったな。ここはもう解放済みだ」
 何をしているか分かるだろ、さっさとどこか行けよと片手で追い払われ、牢を後にしようとした俺にヒュームが何か小さなものを投げて寄越す。
「それ、やるよ。見たかったら見ていってもいいけどさ」
「いや、遠慮しておく」
 足元に落ちたのは小さな骨で作られた鍵。
 牢のある施設に入るための鍵だった。
「またな」
 鍵を拾って部屋を後にした俺の背中にヒュームの声がかかる。
 またな、そう言った彼と再会したのはまたもう少し後の話だ。

 

 

 

End