Finale:Toccata/Onslaught

 




 逃げるようにレヴィオが寝ていた診療室を出た。
 後ろ髪を引かれる思いだったなんて、言い訳に過ぎない。
「逃げるのか」
 また、───俺から逃げたみたいに。
 扉を出た俺に、聞き慣れた声がかけられる。
 驚いて顔を上げた俺の前に、その声の主は壁に背を預けた姿勢で、俺が出てくるのを待っていたとでもいうように立っていた。白い真っ直ぐに伸びた羽が、どこからともなく吹いてきた風に揺れる。赤と黒のコントラスト。帽子の裾から見える黒髪に丁寧に結ばれた赤いタイ。しっかりと整えられたタバード。
 ツェラシェル。
 部屋の前に立っていたのは紛れもなく、ツェラシェルだった。
 どうして、と口を開きかけた俺を遮って、ツェラシェルは言った。
「俺が運んだしな」
 彼はそう言って視線を床に戻した。俺は何も言えないまま、扉の前で立ち尽くす。
 沈黙が僅かな刻を埋めた。
「あいつは、逃げなかったぞ」
 沈黙を破ってツェラシェルが口を開いた。耳に届く言葉はいつになく真っ直ぐで、胸に小さく突き刺さる。
「人生で最高に最低な選択を迫られて、最悪の選択肢を掴んでも、あいつは逃げなかった」
 それなのに、お前は逃げるのか、と、ツェラシェルは言っている。
 逃げるわけじゃない、ここに居るわけにはいかないんだと伝えようにも声にならなかった。運んだのがツェラシェルなら、あの時レヴィオと一緒に居たのだろう。俺の変わり果てた姿を、見たのだろうに。
 少しだけ躊躇いがちなツェラシェルの指が伸ばされ、俺の軽く頬を撫でた。
「なあ、お前これからどうするつもりだったんだ」
 そこまで考えていなかったけれど、少なくともこの街から離れて、人と余り関わらない場所に行くつもりだった。もうこれ以上誰も傷つけたくない、それだけだ。もし、そこでいつか俺が変わってしまっても、誰も傷つけない。
「街を、出ようと」
「カデンツァ」
 穏やかな声だった。
 いつももっと、切羽詰まったような、焦りの混じったような声で名前を呼ばれていた気がする。
「お前が何度変容しかけても、俺はそのたびにとめてみせる」
 何を、ツェラシェル。
「って、あいつの言いそうなことだと思わないか」
 優しい声。頬を撫でた指はいつしか俺の頬を撫で、髪の毛をすくようにして首の後ろへと回された。そのまま抱き寄せられるのかと思ったら、予想に反してその手はすぐに離された。
「いてやれよ」
「でも、」
「でも、じゃねえ」
 強く拳が握り締められる。
 声を荒げたツェラシェルがつらそうに首を横に振った。
「お前は何から逃げようとしてるんだ」
 何から。
 あぁ、言わないで。聞きたくない。いやだ。
 頼む。それ以上、言わないでくれ。
 分かってるんだ、分かってる。分かってた。
 何から逃げたいだなんて───
「やめてくれ、ツェラシェル!」
「あいつの最期くらいちゃんと見届けろ」

 同時だった。
 俺がやめてくれと叫ぶのと、ツェラシェルの言葉が重なったのは。

 畏れていたこと。
 知りたくなかったこと。
 突きつけられた現実。見たくなかったのは、レヴィオとの永遠のお別れ。
「お前のために命張ったんだ、お前が居てやれよ」
 膝の力が抜けて床に座り込んだ俺の腕を、ツェラシェルは優しく取ってくれた。
 それでも、俺はその場から立ち上がることが出来ずに、ただ、その手に、縋った。


 

 

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