Passion/Onslaught

 




 解放された時、口も、腕も、背中も、尻も、全ての感覚が朧気で、俺は喉に絡まった誰のだか分からない精液を吐きだした。
 大丈夫、慣れてる。
 そう言い聞かして、ゆっくりと身体を起こし、眩暈と吐き気を押さえ込んだ。
 這いずるようにして今あった痕跡を消す。ここは冒険者の方や一般の方も訪れるから、痕を残すわけにはいかない。落ちていた服を羽織り、まるでそこから逃げ出すように階段を一歩一歩上がる。

 この階段は奈落から這い上がる唯一の道なのだ。

 吐き気と戦いながら、朝の祈りを捧げるために聖堂に向かう。
 他人は馬鹿みたいだと、笑うだろう。でも、俺にはこれしかない。これしか、残されていないのだ。少しでも近づけるよう、手を伸ばして、精一杯背伸びして。
 ふらつく身体を抱えるようにして、入り口で祈りを捧げた。
 瞼に焼き付く裁きの光は俺を責めることも咎めることもない。

 浅く繰り返す呼気が、自分でも分かるほどに熱かった。気分の悪さと、こみ上げる何かを必死で抑えて、とにかく人気のない場所へ身体を滑り込ませた。聖堂で倒れるわけにはいかない。
 目の前が霞んだ。
 少し休まないと、部屋にすらたどり着けそうにない。膝の力が抜ける。
「う、ぅえ…」
 突然こみ上げ、床に膝をつくと慌てて口元を抑える。が、遅かった。
 指の間から床に零れる、胃の中のもの。きつい臭いと喉に絡む感触が気持ち悪くて、吐き気はおさまらない。もういい、後で掃除すればいい、そう観念して頭を床に擦りつけて全部吐きだした。

 誰も来ないだろう奥まった場所で、俺を見つける声がした。
 嗚呼、この男は。

「カデンツァ」
 手のひらを向けて、今、返事できないの合図。
 それなのに、すぐに俺がどんな状況か理解したのだろう。慌てた様子で駆け寄ってくると、背中をさすられた。
「いいっ…!」
 背中は、まずい。変に声が裏返って、身体が飛び跳ねた。
「背中やめ」
 そう掠れた声が、喉の奥から零れた。
 驚いて手を離した彼、レヴィオは様子のおかしな俺を訝しげにのぞき込む。そのまま黙って理由を言わない俺に痺れを切らし、レヴィオは俺の修道服をめくりあげた。
「お前、これいつだ」
 レヴィオが息を飲んだのが分かる。
 思ったより酷い有様なのだろうか。
 他人事のように思えるのは、今触られるまで熱で痛みが隠れていたからだ。けれど一度思い出した痛みは、服と擦れることで耐え難い苦痛を生んだ。
「さっ、き?」
 色々と諦めて、自分の吐き出したものを修道服の袖で拭いていると、レヴィオにその手を取られた。
「やめろ、俺がする。全部吐け」
「もう全部吐いた」
 背中が痛くてもたれ掛かることも出来ず、床に座り込んだまま荒い息を繰り返す。
 大きな手が俺の頬を優しく撫でた。
 レヴィオは俺の首に繋がった見えない鎖の一端を握っている。その鎖は長くも、短くもあり、彼の手から離されることはないと気づいたのはいつのことだっただろうか。
 俺を騙す心地よい指先は、幻。
「その様子じゃ朝食は無理だな」
「上も下も、お腹一杯」
 肩で息をしながら皮肉を込めてそう言うと、レヴィオは少しだけ悲しそうな顔をした。
「たてるか?」
「あんた、いつもそれだね。大丈夫」
 手を差し出したレヴィオを少しだけ見上げて、その手を取ることなく立ち上がる。

 レヴィオのその手は、女神と男神だ。俺を一方で甘やかし、一方で冷たく突き放す。
 初めて自分の役割を知った夜、レヴィオが言ったのだ。
 組み敷かれた俺の手を握って、俺が手を握っていてやるから、目を閉じてろ、と。少しの我慢だ、と。

 我慢したら、何かが変わるのか。
 今思い出すとなんと馬鹿馬鹿しいことか。


 だが俺は、馬鹿みたいにレヴィオの手を握りしめながら、与えられる苦痛を我慢したのだ。



 

 

 

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