Ordinary days/Onslaught

 




 ───自由だ。
 目を閉じてそう呟いた。
 飛び立った鳥の群れが、影を落としていく。この先生きるも死ぬも、鳥のように羽ばたくも、このまま地を這いずるも、全ては俺次第だ。一面に塗りつぶされた世界に、俺は今ようやく自分の手で筆をのせた。そこにどんな景色が、どんな空が描かれるかなんて、分からない。普通の人なら描き直せるその広大なカンバスも、俺には描き直す時間など許されていない。今を、しっかりと描いて、焼き付けて。
「怖いか?」
 見透かされたようなレヴィオの言葉に思わず目を開けた。覗き込んでくるレヴィオの瞳は、空とは違う、海の青。
「あんたの目、ベッフェル湾の海を思い出す」
 澄んだ一面の青。白い砂が透けて見える遠浅の海岸線。
「海は嫌いだけど、あんたの目は好きだ」
 交差した視線。レヴィオの唇が震えて、まるで俺の視線から逃げるように顔を上げてしまった。
「いきなり何をいいだすんだ」
「なあ、うまい飯喰いに行こうよ」
 そう言って上半身を起こすと、レヴィオは深い溜息をついてその大きな手で顔を覆う。長い耳が真横に伸びて僅かに赤く染まった。飾り気のない銀のピアスが太陽の光を反射して輝く。
「下層だ、下層。行くぞ」
 立ち上がったレヴィオの無造作におろされた手のひらを掴むと、いつもそうしてきたように軽く俺の身体を引っ張って立たせてくれた。立ち上がろうとする俺に差しのばされた手は、なかなか取ることがなかったというのに、こうやって俺から伸ばした手をレヴィオは振り払うことはない。
 あの頃も、今もだ。
「俺、バタリア菜のキッシュ食べたい」
「あるかな、わからんな」
 歩き始めたレヴィオの背中を追いかけるようにして隣に並ぶ。
 青い空は相変わらずだったけれど、押しつぶされそうな感覚は既にない。肩を並べてゆっくりと下層への階段を降りていく。レヴィオは俺が隣に並べば、必ず歩幅を合わせてくれた。
「なかったら次は探しておいてやる」
 自然に交わされる次の約束に苦笑いする。突然手のひらを強く握られてレヴィオを見上げた。
「転ぶなよ」
「転ばないって」
 あれは散々突っ込まれて手足の感覚が朧気だったからであって、普通に階段で転ぶほど足腰弱いわけではない。言い訳しようと口を開きかけて、そんなことを口に出すのも躊躇われて、結局口籠もった。
 レヴィオの熱が絡み合った指を通してうつる。
 見上げた視線がレヴィオのそれと交差して、お互い顔を背けた。離れていく熱。ほどかれた指。
「こっち」
 ガイドストーンを抜けて、見慣れた下層の町並みに出る。レヴィオの後を半歩遅れて歩き、俺は一面に広がる空の青と、海の青を見た。何処までも遠く伸びる水平線。青と青なのに何処まで行っても交わらない。青魔道士の俺と、青い瞳のレヴィオみたいだ。
 同じ青なのにこんなにも違う。
 いつかこの空と海は解け合うことが出来るのだろうか。
「カデンツァ」
 名前を呼ばれてレヴィオに向き直る。
 嫌いだった識別された名前。呼ばれるときは決まってろくでもないことだった。
 でも、今は違う。
 立ち止まった俺に、もう一度名前を呼んだレヴィオ。
 差し出された手に、無意識に手を伸ばした。
「レヴィオ」
 彼の識別記号を口に出す。
 レヴィオ、という名前。正確には、レヴィオニ、だった気がする、彼を表す名前。
 しっかりと差し出された手を握って、繰り返す彼の名前。
 どうしてそんなことをしたかなんて分からない。分からないのに、胸が締め付けられるほどに苦しいのは何故なのか。絡めた指を引かれて、よろめくようにしてレヴィオの胸に抱きとめられる。耳元で感じるレヴィオの心臓の鼓動が激しくて、何故か俺の心臓までが一緒になって早まった。
「そんな切なそうに呼ぶな」
 ため息混じりにレヴィオの大きな手が俺の背中に添えられた。
「俺はもうお前を置いていくつもりもないし、この手を離す気もない」
 レヴィオのその言葉はまるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「お前の手を、もう二度と振り払ったりしない」
「何を言ってるんだか」
 レヴィオの胸を押しのけて、身体を離す。
 うまく笑えないから、やめて。どうしていいか分からないからやめて。
「側にいる」
 折角押しのけたのに、レヴィオの大きな手が俺の身体をもう一度引き寄せた。腕の中に、レヴィオの胸の中に閉じ込められる。何を言っている、だなんてもう聞けなかった。たったその一言で、今まで堰き止められていた何かが一気に流れ押し寄せて、溢れた。
 溢れてしまった。
 詰まったような情けない声が喉から漏れる。
 すぐにレヴィオが俺の頭を抱えて、何度も何度も、子供をあやすように撫でてきた。少しだけ困ったような雰囲気を感じるものの、だけどあふれ出してしまったものは止まらない。
 ここがジュノの往来だと言うことを忘れて、俺はただ嗚咽した。
 レヴィオはただ、ずっと、俺を撫でていてくれた。

 

 

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