Jubilation/Onslaught

 




 ───あの日、たったひとつのノックを待っていた。

Leviony


 しっかり握って離さないレヴィオの手が、じっとりと汗ばむ。
 離しても、もうどこにも行かないけれど、繋がった手のひらから伝わる熱が心地よかった。
 あれから色々と考えた。俺が望むこと、望むもの。
 俺が、必要なもの、とか。
 居住区へ続く通路は珍しく人が少なくて、蛮族軍が皇都に攻め入っているのが伺えた。すれ違う冒険者は真っ直ぐにアルザビの市街地、戦闘街区を見据えて掛けだしていく。彼らがこの街を守ってる。俺がそうだったように、彼らもまた、魔笛ではない、見えない大切な何かを守ってるのだ。
 居住区の奥、日の光が直接差し込まない内側、空き部屋が多い区画の片隅にレヴィオの部屋はある。まるで隠れ家だ。何日も帰らなかった部屋の前で、思案するように立ち止まったレヴィオをじっと見上げる。
「いいのか」
 その声はどこか戸惑っていた。何を迷う必要があるのか、と言いたかったけれど、俺たちの関係は複雑すぎて、歪んだ何年もの時間をたった数日で飛び越えられるほどお互いに心の整理がついているわけではない。忘れられない過ちは、一生ついて回る。それでも、一歩踏み出さなければ何も変わらないと学んだ。
 言葉の代わりに握った手を強く握り返す。
 肯定だと伝わったのか、荷物の中から取りだしたカギで部屋のドアを開けると、レヴィオは振り返り握った俺の手をゆっくりと引き寄せた。
 一歩、また一歩、俺の足はレヴィオの部屋へと進む。
 部屋と、石畳の境界線。それはきっと、俺とレヴィオを隔てる壁でもあったのだと思う。
 俺の身体がゆっくりとその境界線を踏み越えて、レヴィオの部屋へと入った。俺に追従するかのように、背中でゆっくりとドアが音を立てて閉まる。それと同時に僅かな外の光が遮断された薄闇で、レヴィオの両腕が俺を強く抱きしめた。
 お互い言葉はない。
 薄闇に目が慣れてきて、レヴィオの輪郭が見え始めた頃、ようやくその手は離された。
「悪い。飲み物準備するから、座ってろ」
「シャワー、浴びて来ようか?」
 部屋に、キッチンに、うっすらと魔法のランプがともっていくのを見つめながらそう聞いた。キッチンへと向かっていたレヴィオが振り向いて、僅かに声を震わせながら座ってろ、と繰り返す。部屋の中央に置かれた大きなベッドの端に腰掛けて、枕の位置を整えていたら、もの凄い形相でレヴィオがキッチンから顔を出した。
「脱ぐなよ!いいな、いいからそのまま座ってろ」
 さすがにそこまで言われると思っていなくて、慌てて枕から手を離す。若干の居心地の悪さを感じつつも、レヴィオが戻るまで大人しく待つ事にする。実際脱ごう、だなんて思ってもみなかったわけだけれども。
 暫くして、キッチンから甘いいい香りがした。
 懐かしくて、少しだけ哀しい香りだった。アーモンドと、甘いカカオの香り。大聖堂にいた頃、寒い夜に貰ったココアの香りだ。あの頃飲んで以来、飲む機会などなかった。特にこの国での主流は別の飲み物で、ココアのようなあちら側のものは冒険者による交易以外手に入れる手段はない。だけど、込み上げた懐かしさは、同時に小さな棘も伴った。
「怒鳴って悪かった」
 今度はゆっくりとキッチンから姿を現したレヴィオは、俺にマグカップを手渡すと隣に腰を下ろした。軋んだ音を立ててベッドのスプリングがしなり、腰が沈む。隣で黙ってしまったレヴィオを覗き込んで、目を合わせてこない彼をじっと探るように見つめた。
「しないのか?」
「しない」
 ココアを握り締め、そのままレヴィオはまた黙ってしまった。
「俺はレヴィオだ、エルヴァーンじゃない」
 何を言っているのか分からなくて、伏せられたレヴィオの目に手を伸ばす。その手をそっと掴まれて、そのままレヴィオは俺の手を握り締め、祈るように額に当てた。
「お前のレヴィオは、何もしないだろ」
 俺の、レヴィオ。
「お前の望まないことはしない。俺はあいつらと同じじゃない」
 あいつら、とは大聖堂の彼らの事か。
 彼らとレヴィオを同列に、なんてそんなこと考えたこともなかったけれど、結局する事が同じなら、レヴィオにとって俺から見た同じ「俺を抱くエルヴァーン」でしかないのだろう。深く考えたことなどなかった、というより、俺はあの屈折した時間の中ですり込まれていたのだと思う。俺は強弱関係において、最下層の捕食されるものなのだと。俺の意志は最初からそこになく、最初からそのために雇われたただの道具に過ぎなかった。
「同じじゃない」
 それが例え気休めでも、そう言わずにはいられなかった。
 あんたは、優しかった。別に今更、あんたが望むなら、俺は、と言いかけて口を噤んだ。
 俺が、望むもの。望むこと。
 望まないこと。
 なんとなくレヴィオの言わんとしていることを理解して、俺は黙ってそのままレヴィオの肩にもたれ掛かるよう身体を寄せた。
「でも、俺は、あんたともっと話がしたい」
 手の甲から、レヴィオの額が離れる。
 息を飲んだような、驚いたような、そんな雰囲気が伝わってきた。
 あんなに長いこと一緒にいた気がするのに、俺とレヴィオは殆どといって会話をする事がなかったように思う。奇妙な関係の間にあったのは、最低限の伝えることだけ。それは主に俺のクソったれな予定であることが大半だった。
 俺たちは好きな食べ物だとか、普段読んでいる本だとか、そんなごく一般的な事すら知らない。
 何故、大聖堂にいたかをも。
「あんたの話を聞きたい」
 なんでもいい。俺はあんたの名前すら、そう呼ばれていたから、ということしか知らないんだ。
 笑ってしまう。俺はそんなことすら知らずに6年もあんたと一緒にいたんだ。
 そういうとレヴィオは繋いでない方の手で顔を覆った。
「クソ、こんなときに何から話せばいいのか思いつかねぇ」
「自己紹介、から、かな」
 もう一度レヴィオの顔を覗き込むようにして顔を近づけて、俺は笑った。レヴィオは一瞬固まってから、すぐに吹き出すようにして釣られて笑う。
「あぁ、そうだな」
 これが俺とレヴィオの新しい始まりになればいいと思う。
 これが俺とレヴィオの止まっていた時間が動くきっかけになればいいと願う。
 近い未来、きっと俺はあんたを置いて行くけれど、限られた時間を、救って貰った時間を俺なりに大切にしようと思う。
 ゆっくりと伸ばした腕をレヴィオが肩ごと引き寄せて、俺はレヴィオの胸に抱きしめられるような形になった。生きている匂いと、力強い鼓動が全身から伝わってくる気がした。

「ようこそ、俺のモグハウスへ」

 囁く声に思わず目を閉じた。

 

 この日から、いつもひとりだった俺の隣に、燃えるような朱髪のシーフがひとり、いることになる。


 

 

End