Actual Feeling/Onslaught

 



「こんにちは」
 そう、いつものように何気なくリンクシェルに挨拶をした。
 朝早いというのにリンクシェルには既に何人も居て、ふとカレンダーを見ながら、今日は「空」の日だったと気がついた。口々に返ってくる挨拶、いつもと変わらない光景。
 コンソールの上に置いてあった装飾品を身につけて、ふと窓の外を見た。柔らかな日差しがアトルガンの石畳を照らす。雲の流れが僅かに速いけれど、雨は降りそうにない。時間を確認して、そろそろ出かけなくてはと枕元のマグカップを手に取ったところで、リンクシェルから聞き慣れた声が俺の名前を呼んだ。
『カデンツァ、ねえ』
 ユランは人懐っこい声で言葉を止める。
 それは全部言わなくても分かるでしょ、と言ってるみたいだ。
「ごめん、今日は約束が」
 そう言うと、あ、と短い声が聞こえて、続けてユランがごめん、と謝った。毎回こうやって駆り出されて、すっかり準メンバー扱いとなってしまったけれど、最近それもいいかと思えるようになった。心境の変化、とでもいうのだろうか。相変わらず突き抜けるような空は苦手だったけれど、以前ほど押しつぶされるような圧迫感はない。
 リンクシェルで今日の予定を周知しているユランの声を聞きながら、レンタルハウスを出てアルザビ郊外へと向かう。この道も慣れたもので、目を閉じてでも目的の場所には辿り着ける気がした。
 道の両側には石造りの半分崩れた壁が連なる。
 元々ここはアトルガン皇国の街ではなかったと聞く。侵略によって得た皇都。この崩れた石造りの壁は、その時のものだろうか、朽ちた木材や茂ったツタが何年も放置されていたのだと伝えていた。
 道を抜けると、そこは小高い丘。
 短い草で覆われた一面の緑が視界を占領する。吹き抜ける一陣の風が、草を舞い上がらせた。そこには一定の間隔で名前の刻まれた石がずらりと連なる。名前は誰が彫ったのか、どれも個性的で一定の様式を保ってはいない。
 ここは、墓だ。
 戦士達の墓場。
 故郷を失い、あるいは、故郷に帰ることなくこの地で散った魂たちが眠る場所。
 いつもの石の前にたち、石に彫られた名前をゆっくりと指でなぞった。これが本名かどうかなんて知らない。フルネームも知らない。ただ、そう呼んでいた、自分とその人を繋ぐ、接点とも言えるべき唯一の名前。
 持ってきた花をそっと石の上に置いた。
 風が、花びらを攫っていく。
 許して欲しいとは言わない。だけどこうして来ることと、花を手向けることくらいは。
 約束、という名前の俺の償い。自己満足だと分かっていても、それでも。ずっとこんな気持ちでいたのだろうか。どうやったら許して貰えるかも分からなくて、ただ見つめていた。これは、ずっと続いていく。俺に、俺自身が望まない死が訪れるまで続くのだ。
 目の前を舞う花びらを追って天を仰ぐ。
 高く遠い空が、広がっていた。
「カデンツァ」
 不意に呼ばれて振り返る。
 俺の名前を呼んだそこに立つ人物を見て、俺の頬はぎこちなく歪んだ。
 まだ、俺は、うまく笑えない。
 笑ったつもりったのに、それはきっと笑顔だなんて呼べる代物ではなかったのだろう。驚いた表情と、そしてすぐに身体を引きずるようにして彼は、───レヴィオは、俺に駆け寄ってくる。
 そっと包み込まれるように、レヴィオの広い胸に抱かれた。俺は突然のことに何も言えなくて、レヴィオの僅かに早まった心臓の鼓動を聞く。
「すぐに、行ったのに」
 ようやく、口に出せた言葉は心と裏腹で。
「お前がここだろうって、頼みもしないのにご丁寧に教えてくれたやつがいてだな」
 誰が、と言いかけてやめた。
 今日、ここに来ることを知っているのは一人しかいなかったからだ。お節介だ、とまでは思わないけれど、彼もまた俺を心配したのだということだけは理解した。黙って逃げたりするつもりではなかったし、彼らに報告をしてから向かうつもりだっただけの話だけれど、黙って行こうとした前科がある分そう思われても仕方がない。
「お前に、ちゃんと言いたくて」
 何を、と遮るのは無粋な気がして、ただレヴィオを見上げた。
 広がる空と同じ色の瞳が俺を見下ろす。この瞳が開くのを待っていた事を思い出し、弛んだ涙腺を誤魔化すかのように唇を噛みしめた。
 一度は閉ざされた瞳。でも今はその青に俺を映す。
「俺を、もう置いていかないでくれ」
「え、」
 思わず聞き返した。
 行くな、とか、離れるな、とかそう言われると思っていた。側に居ろ、とか。むしろ、ついこの間俺を置いて行こうとしたのはあんたなのに、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。最初にあの場所において行ったのは俺だ。
「どこにも、行かない」
 今度はレヴィオが聞き返す番だった。
 その表情が可笑しくて、思わず笑う。
「もう、逃げない」
 俺は、逃げない。
 ゆっくりと、恐る恐る、だったけれど、俺はレヴィオの背中に手を回した。広い背中。だけどこの数週間で少しだけ肉が落ちてしまったのが分かるエルヴァーンの、いや、レヴィオの背中だ。
 これは、レヴィオの背中で、俺の背中を抱くのは、レヴィオの大きな手。
 ずっと差し出してくれていた手を取らなかったのは俺。振り払ったのは俺だ。だけど、その手はずっと伸ばされていて、俺の手を無理に掴むことなく、ただそこにあった。
 俺はそれを見ようとしなかった。いや、見えていなかったのだと思う。
「今更だけど、まだ間に合うかな」
 レヴィオの鼓動を聞きながら、頬をその胸に押しつけた。レヴィオの手が、躊躇いがちに俺の肩を抱き寄せる。
「あんたの部屋」
「都合いいけどよ、あれから俺の時間はずっととまったままなんで」
 掴んでいた肩をそっと離されて、レヴィオが腰を屈める。レヴィオの青い目が俺を覗き込むように近づいた。
「お前が来てくれるまで」
 俺の時間はずっと止まってる。
 囁くようにそう言って、レヴィオは俺の額に唇を押し当てた。
 重ねた手のひら。
 絡めた指。
 力を込めれば、同じくらい強い力で握られた。あの時、力を失って離れてしまった手を後悔していた。多分、レヴィオも同じ事を、ずっと後悔してきたに違いない。
 ゆっくりと流れる時間。
 柔らかな空気。
 手を繋いだまま、まるで抱き合うようにどれだけそうしていただろう。聞き慣れた携帯端末の呼び出し音で我に返った。その呼び出し音はレヴィオのもので、俺はゆっくりとレヴィオから身体を離した。だけど、レヴィオの手が俺の手を離さない。少しだけ距離をあけて、手を繋いだ俺たち。親しげな会話から、随分とつきあいの長そうな雰囲気を感じて、じっとレヴィオを見上げた。
「お前な、リバビリって俺は今日施療所を出たんだぞ」
 そう言って笑ったレヴィオが、こちらに目で相手を伝えてくる。唇がユ、ラ、ン、とかたどられ、それがイベントへの誘いだということを知った。もちろん本気ではない、9割がた冗談だろう。
 1割は確実に本気だとも思うけれど。
 じゃあまた復帰したらな、と軽い調子で通信を終えたレヴィオが繋いだままの手をしっかりと握りなおした。
「行こうか」
 また静寂が訪れたこの場所に、レヴィオの柔らかな声だけが響いた。
 頷きながら、俺は久しぶりに自然に口元が綻んだのを感じる。人目も気にせず、手を繋いだままレンタルハウスのある居住区までゆっくりと歩いた。交わす言葉も、会話もないけれど、それでよかった。
 ふと、居住区手前の区画で砦を見上げる。
 視界の隅に、見慣れたフードが掠めたが、すぐに雑踏と喧噪の中に埋もれて消えた。
「どうした」
「なんでもない」
 一瞬歩みを止めそうになった俺にレヴィオが視線を落とす。もう一度なんでもないんだ、とまるで自分に言い聞かせるように呟いて、また歩き出す。 
 あの場所で立ち止まった俺はもういない。
 今踏み出した一歩が、今の俺の全て。

 俺の手を握っているのは、レヴィオ。


 

 

【→Jubilation→】