Never say never /Heaven

 

 


 うとうと、していた。
 勤務中にも関わらず、だ。
「隊長!」
 呼ばれて慌てて顔を上げると、酷く狼狽えたフェリモシエルが自分を覗き込んでいた。
「す、すまない」
 自分が寝ていたのだと自覚すると、恥ずかしくて真っ直ぐに彼の目を見ることが出来なかった。疲れているなどと言い訳が通るはずもなく、頭を軽く振り立ち上がる。
 だが、その立ち上がったはずの身体は、次の瞬間部下の大きな手に支えられることになる。
 お互い声すら出なかった。
 ゆっくりとソファに戻される身体。
「…あんた、馬鹿ですか」
 絞り出すように、フェリモシエルが呟いた。
「返す言葉もない」
「今日という今日は選んで貰いますから」
 何を、と言いかけた唇を指で押さえられた。
「あんたが上層の先生のところに行くか、先生をここに呼ぶか、だ」
 怒りをあらわにするフェリモシエル。
 長い耳が上向きにぴん、と伸びるのはヒュームな自分にはとても興味深い。だが、今の状況でそんなことを思っている場合ではなかった。
 期待していた、なんて気づかれてはいけない。
 部下がどうしても行けと言うから、と理由を小賢しく作っているだなんてことは。お前のところへ行くことを、仕方がなかったなんて理由を求めていたなんてことは。
 その選択肢に、唇が綻ぶのを必死で隠しただなんてことは。
「モ、…忙しい先生を呼ぶわけにはいくまいよ」
「じゃあ、送ります。それくらいさせてください」
「まだ行くとは」
 そう遮ったら、思いっきり胸ぐらを掴まれてソファに押しつけられた。
 強い力で押さえられ、呻く。
「来月、アルタナ四国軍事会議があるんですよ。わかってんですか?」
「くるし…」
「あんたが倒れたら、誰があの最凶の魔女止めるんですか。体育会系の王子も、あの地味なおっさんもだ。行かないとか言うなら自分は今此処であんたを気絶させてでも連れて行く」
 彼は彼なりに、心配してくれているのだろう。普段の穏和な物腰からは想像も出来ないほどの剣幕に気圧される。真摯な姿になんて返していいか分からず、分かったと頷いてみせることしか出来なかった。
「あんた、いつからそんな臆病になっちまったんですか」
 握った胸ぐらを緩め、フェリモシエルは項垂れた。
「なんでもないです、忘れてください」




 結局、行かざるを得ない状況に追いやられ、自分は上層の女神聖堂前で二の足を踏んでいる。
 なんと、声を掛ければいいのかさえ分からない。
 やあ、モンブロー、久しいな。
 モンブロー、元気だったか。
 どの言葉も、笑顔と一緒に出てこない。引き攣ったような笑みが、顔に張り付いてしまう。
 病院の扉が、近くて、遠い。
 ここで頭を抱えていても仕方がないのだ、そう分かっていても一歩も前に出ない臆病者の足が邪魔をする。本当に臆病になったものだと思う。冷徹にして冷酷と噂されたジュノ親衛隊長が見る影もない。
 悩んでいても仕方がないのだ。
 診断書を貰わなければ、明日もっと無様に、荷物のようにここに連れてこられることになるだろう。意を決して、病院の扉を開けると、いつもの看護婦があら、と微笑んだ。
「忙しいか?」
 忙しいならまたあらためようと逃げ腰になったところを、彼女は柔らかく微笑んでいつものことです、と言った。待合室のソファに促されると、彼女はすぐに診察室にいるモンブローに声を掛けてしまう。
 先生、珍しい客人がおいでですよ、と。
 そうだ、珍しい客人だ。と思っていたら、診察室からはもの凄い音が響き、続いてモンブローの詰まった声と、椅子の倒れる音がした。何を慌てているのか、自分は逃げも隠れもしないぞ、と先ほどまで逃げだそうとしていたおれがよく言ったものだ。
「ウォルフ」
 懐かしい声、懐かしい笑顔。
 眉毛をハの字に下げて、親友だったモンブローは診察室から顔を覗かせた。
「どうしたんだい、調子崩した?」
 診察室から追い出すようにしてご老人を一人待合室に追いやって、モンブローは診察室へ入るよう手招きした。
「いいのか?」
「いいんだよ、ジュノのために忙しく働く隊長殿を長く待たせるわけにはいかない」
 先ほどまで開かれていた診察室の扉を、さも当然のようにモンブローは閉めた。
 逃がさない、という意味だろうか、と思い至ってすぐに馬鹿な、と打ち消す。
「たいした事じゃあない、最近疲れが、たまっていたのか調子が」
 どう説明していいか分からずに、しどろもどろになりながら調子が悪いことを告げた。どうして調子が悪いか、わかりきっていた気もするが、そこは言うべき事ではない。
「どう悪い?眩暈がするとか、頭痛とかはない?」
 彼は医者だ。
 その笑顔も、そのくちびるから紡がれる優しい言葉も、全て患者に当てたものなのだ。分かっていたのに、くちびるが戦慄いた。
「ウォルフ?」
「いや、なんでも」
「ねぇ、どうして泣きそうな顔をしているの」
 頬に触れようとしたモンブローの手が、寸前で止められる。
「触れてもいいかな?」
 少し困ったような、それでいて、優しい、優しい笑顔。
「お前は医者だろう、患者に触れるのに許可がいるのか」
「この手は今、医者の手じゃない。医者を騙った、一人の男の手だよウォルフ」
 近くて遠い手。
 おれは、自分からその指に頬を寄せた。
 頬を伝っていった涙に気づいたが、もうどうしようもない。おれは今、一人の男の手に、頬を委ねた。分かるかこの意味が。回りくどいおれを許せ。


 ───モンブロー。
 

 そう、ため込んでいた言葉をため息に乗せて吐き出した。
 彼の手のひらに当たった吐息が、熱い。


 近づいてきたモンブローの薄いくちびるに、おれは、自らくちびるを重ねた。