Heaven

 



 三国の中心地であり、クォン大陸とミンダルシア大陸を繋ぐ掛け橋の意味もあるこの貿易大国ジュノ。
 4層に分たれた街は深夜だというのに活気を失ってはいない。

 美しいル・ルデの庭。
 青い月明かりが仄かに庭を照らしだす、幻想的な夜。

 ジュノ大公、カムラナートの屋敷は親衛隊の詰め所奥に小さく構えられている。この大国を治める人物の館とは到底思えないほどそれは質素なものだ。

「こんな夜更けに呼び出されるとは」

 誰に聞かすともなく、そう口をついて出る。
 既に勤務時間を終えていたウォルフガングは、就寝直前の呼び出しに慌てた。
 何か大事でもあったのかと自然とその足は速まる。
 濡れた髪が夜風に当たり冷たい。
 前髪を指で軽く撫でつけ、ウォルフガングは屋敷の扉を叩いた。



「それは命令、ですか?」
 戸惑いの色が混じる上擦った声がウォルフガングから発せられた。
 ジュノ大公の寝室。
 そこで受けた指示は、男であるウォルフガングにとって理解しがたい内容だった。
 ベッドに腰掛けたエルドナーシュが顔をそむけ、押し殺した笑いをく、く、と漏らす。
 いつも居る周囲に身の回りの世話をする下女の姿は見えない。
 この部屋にいるのは大公とその弟君、ジュノ諜報部とやらの顔の知れない男がふたり。
「命令、と取ってもらって構わない、が」
 大公のまるで囁くような優しい声にウォルフガングは顔を顰める。
 エルドナーシュが堪えられず噴出した。
「早くしてよ、それとも脱がされるほうが好き?」
 ウォルフガングには何を言われているか理解できなかった。
「どういうことですか」
 乾いた喉から絞り出される掠れた声。
 異様な雰囲気と状況に、自然と足が一歩退いた。
「脱げ、と言っているのだよ」
「適当な女性を連れてきます。すぐに」
「私は君がいい、と言ったのだが」
「ですが私は」
 ───男で、と続く言葉は、頬を軽く掴んだ手によって遮られる。
 今ほどジュノ親衛隊制式官給品であるこの鎧を。
 白く美しき鋼鉄の。栄えあるジュノ親衛隊の証である、この鎧を憎んだことはないだろう。

 重く感じた。
 なによりも、重く。

 腕を取られ一歩も動けなかった。
 視線に射竦められる。
 大公の長い指が、流れるように鎧の留め金を外した。
 肩当が床に転がる乾いた音が、目を閉じたウォルフガングの耳に届く。

「何故、私なのですか」

 大公はその問いに答えることはなかった。


 ───しっかりと掴まれた腕はびくともせず、肌蹴られた胸を冷たい指と唇が這った。
 抵抗しようと思えば出来たはずなのに、何故か射竦められたかのように身体は自由にならない。
 広げられた脚、下半身を撫でる無粋な手。
「こういうことは初めてか」
「私にこんな経験があるとでもお思いですか」
 呟くように答えるも、冷たい大公の、手が、指が、肌の上を滑るたび思考は奪われていく。
 その冷たい指先で、すべての熱が吸い上げられていくようにも感じる。
「はやく済ませてください」
 目を閉じて全てを閉ざす。精一杯の強がりだった。
「だったら可愛い声のひとつでもあげたまえ」
 軽く笑い流されて、香油を振りかけられた。
 それは鼻腔を刺激する甘い甘い香り。
 たっぷりと身体に絡ませるように、じっくりと撫で上げられた。
 冷たかった手が、火傷しそうなほど熱く感じる。
 手は滑るように陰茎、陰嚢、そして───その指の感触に思わず歯を食いしばる。
 声を上げて後ろでエルドナーシュが笑った。
 大公が再度膝を折り、覆いかぶさるように顔を近づけてくる。
 首筋から香る、仄かな甘い香り。
「くっ…」
 不気味なほどあっさりと、一点を執拗に刺激していた指が離され呻いた。
 そして次の瞬間、まるで水の中に手を入れたような音が耳に届き、思わず悲鳴を上げていた。
 身を裂かれるような強烈な痛みが下腹部から脳天を突き抜ける。思わず仰け反ったのだろう、視界は空虚な薄暗い天井。泣きたくなどないのにあふれる涙で視界が徐々に霞んでいくのがわかった。
 身をよじる。
 何を叫んだか自分でもよく分からなかった、ただその痛みに耐えがたいものを感じていた。泣き叫ぶ、多分この言葉が一番しっくりとくる。
「じきに痛みはなくなる」
 そういわれてもとどまることを知らない涙はあふれてくる。
「大丈夫だよ、よくなる」
 何が大丈夫なのか。動かない腕を振り解こうと力を込めるも、びくともしなかった。
「暴れると痛いだけだよ、ウォルフガング」
 涙を指ですくわれて、拭われた。
 痛みと、これからの恐怖に言葉すら紡げないでいる自分に、大公は優しく微笑んで見せる。その瞳の奥に宿っているのは、間違いなく弱者を組み敷く獣の光。狂喜の光だ。
 親指で唇をこじ開け、そこに口付けられた。
 女のものとは違う、無骨な唇の感触。
 温かく、硬い。
 唇は激しく、噛み付くようでいて時折吸いついてくる。まるでなまめかしい生き物のような舌が口腔を動き回り嘗め尽くす。
 ───熱い。
「んんっ…」
 唇は離されては吸い付く。
 舌を絡められ、強く吸われると自然と腰が浮いた。その瞬間現実に戻す鋭い痛み。
「見た?今自分から腰振ったね」
「ちがっ」
「本当に初めて?」
 それは侮蔑か。エルドナーシュの問いかけに唇を噛みしめると、今度は大公の腰がまるで内臓を押し上げるように勢いよく突き出された。
 無様な呻き声と、詰まった息。
 既に痛みはぼやけたのに折角止まった涙が押し出されるように溢れた。
 そこにあるのは吐きそうなほどの不快感と、深い絶望。
「何を考えている」
 堕ちていく、堕ちていく。
 世界は真っ白だった。
「いえ、何も」
 震える声でそう答え、目を閉じた。
「そうか」
 その言葉と同時に──喉が仰け反り、声にならない悲鳴が零れるようにあふれた。
 動かない腕が何かを求め彷徨う。 

「あぁ…」

 まるで自分のものでないような、ため息とも、絶望ともとれる声。
 無造作に投げ出された腕に、窓から差し込む月光が青白い光をうつしていた。エルドナーシュの楽しげな笑い声だけが、まるで無様な自分を嘲るかのごとく部屋に響いた。
 まるで足元から這い上がってくるような、おぞましい感覚に歯を食いしばる。顰められた眉がぴくりと動くと同時にウォルフガングの喉が大きく反った。時折きつく握り締められた拳は何かを振り払うかのように空を切る。
「鉄面皮の隊長か、見る影もないね」
 エルドナーシュの声など、もはやウォルフガングの耳には届いていなかった。
 青い月が、ウォルフガングの肌に光を落とす。
 小さなため息と共に大公の身体が離れ、それと同時にウォルフガングはようやく訪れた解放に安堵のため息を漏らした。乾いた唇をかみ締め、ウォルフガングは自らの体を引きずるようにして身を起こす。
 腰に鈍い痛み。
 く、く、とエルドナーシュが喉で笑った。
 何がおかしい。
 大公が手を差しだしてきたが、見えない振りをした。
「立てるかい」
 霞む視界の中、ウォルフガングは手のひらで目頭を押さえた。
 気を抜けばあふれる涙が頬を伝ってしまう。
 悲しいのか、悔しいのか、それとも痛みのせいなのか、それすら分からない涙だった。
「帰ります」
「一人で帰れるかい」
 近くの服を掴むともう一度言った。

「帰ります」

 声は酷く震えていた。